沖浦克治氏にまつわる一連の騒動について10


これは、創価仏法研鑚掲示板 沖浦さんをガンガン破折するスレで書いたものをまとめたものになります。

疑似科学やオカルト… なぜ、だまされるのか?より、一部抜粋致します。

「人間は、だまされやすい」ということを肝に銘じるのが大切であって、一番危ないのは「私だけは、だまされない」という「思い込み」と指摘する。

「あの人の言うことだから、本当だろう」という主体性の放棄も、自らの心をだます行為だ。「自分の目でしっかり確かめ、自分の頭で判断する習慣を」と呼びかける。

「ささいなことでも、『なぜ』と意識的に問い直してほしい。その背景には必ず理由があるのだから」

さらに、“インチキ”を見破るには、「そんなことができるのなら、どうしてこうしないのか」と考えてみることが大切だと言う。

楽して得を取りたいという「欲得」と「思い込み」、それに「非合理的思考」が結合するとき、人はとめどもなく危うい「だまし」の深みにはまっていく

沖浦氏の考えを支持するないし、否定しない方は、「あの人の言うことだから、本当だろう」と思い、何も考えずに、信じてはおりませんか?
勿論、その際の考え方は、仏法に照らして、また日蓮大聖人、創価三代に渡る会長の実践と照らし合わせてどうかということです。
私には、それらが、欠けているように、思えてなりませんでした。

いわゆる「沖浦教学」が「戒壇本尊否定論」に起因するのは明らかですが、その自説にムリヤリ所論をあてはめ、しかも教学を論ずる場合に基本となる「総別の二義」「一往再往」を弁えず、一方的に断言して決め付ける点に最大の問題点があるのだと思いますね。
さらには、誤りを指摘されても病的なまでに認めません。
認めないかわりに、ひそかにスリカエて自説の正当化を謀ろうと致します。

ここで気をつけなければいけないのが、破折の根拠としてあげられた論説を、後に、すり替えて自説に取り込み、あたかも自分が最初から主張していたように装うことです。
顕著な例として、『虚空会は迹だから、それをうつした御本尊も迹』など。
卑怯な手法なのですが、知恵をつけさせてやっているともいえます。

こうしたことを避けるためには、まず先に相手に説明させることが第一です。

自説への取り込み」以外にも、「前提を崩す」という行為も見られます。

結局、沖浦氏にとって一番大事なもの、最大に守るべきものは『自分は間違っていない』ということであって、そのために利用できるものは「他人の書き込み」であっても「池田先生の言葉」であっても、何でも利用するということなのでしょう。


心理学の言葉で「後付けバイアス」ということばがございます。

意味:人間は、「こうなって欲しい」とか「こうなる筈だ」という思いを持つと、その思いに合う事実だけが心に印象づけられ、不都合な事実には関心を振り向けないという「心理的な偏り(バイアス)」が生じること。

沖浦氏は、戒壇説に疑問を持っていたとされていることも、金原本を読んでから、自らの正当化に利用しているようにしか思えてなりません。
牧口先生・戸田先生・池田先生の御指導を趣意で歪曲して用いることも同じくです。
少なくとも、理解に悩む一連の矛盾に満ちた発言を読みますと、そう考えざるを得ませんね。
ようするに、自分の都合の良いように人の考えを利用します。
そして、自分の都合の悪い考えは、根拠もなく、感情論で否定するということです。
そして、私が考えるに、沖浦氏の考えを支持するないし、否定しない方にも同じ傾向が見受けられる気がしてなりません。


にほんブログ村に参加しております。「ぽちっ」とヨロシク!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ