心の休ませ方 「つらい時」をやり過ごす心理学 1

大学生になって、早4年がすぎようとしております。
1番修正できていないことは、ネガティブ思考でしょうか?
正直に言えば、精神的に落ち込んだときには、大学にすら行けなかった。引きこもりじみたことを、落ち込んだときはおおいにしました。今でも、襲われることがあります。先月はかなり重度でした。

そうしたものを、和らげた本を紹介します。
人に発信するというよりは、自らをなだめるために、落ち着かせるために、書き留めたいと思います。

生きることに疲れた人は、人に認めてもらおうと無理をして頑張りすぎたのである。
人は、周囲の人から「認めてもらいたい」という欲求の強さで生き方を間違える。
「認めてもらいたい」という欲求は幼児期に愛されなかった想像を絶するほど強いものがある。
(中略)
自分のしたことを「認めて」ほしいのである。


「認めてほしい」という気持ちを汲み取り損なうから人間関係がうまくいかないのである。


人がマイナスの発想をするのは、認めてもらいたいからである。愛情飢餓感がマイナス発想の原点である。
(中略)
物事の解釈の中にその人の心の底の感情が表現される。人がマイナスの発想をした時に、そのことを考慮に入れないで、「こういうプラスの発想をするべきだ」と話せば、相手を不愉快にするだけである。


うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人に、周囲の人は長い間にはたいてい嫌気がさす。(中略)彼らは何事においてもマイナスの発想である。
うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人は、それなのにいつも「私は不幸だ」と自分の人生を嘆いている。毎日「辛い」と言っている。
そして何も言わなくても「辛い」という雰囲気を出している。


うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人が望んでいるのは「辛いわね!」という同情と、それに堪えているあなたは「偉いわね!」という賞賛の言葉なのである。
うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人は「認めてもらいたい」のである。(中略)彼らは愛情飢餓感が強いから愛情を人以上に緊急に求めているだけである。
うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人は「あなたはすごい」という社会的承認を求めているのである。
うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人の「生きるのが辛い」という言葉は、「もっと私を認めてほしい」という意味である。


あなたは実際にあった被害を誇張している周囲の人の言うとおり、あなたが言うほどあなたは醜い目にあわされていない。
しかしあなたが、「私はこんなにも醜い目にあった」と事実を誇張するのは、その言葉で心の底に根雪となっている憎しみの感情を吐き出そうとしているからである。


「私はこんなに惨めなの」と言うことは、私はあなたに怒っているという意味である。
(中略)
あなたが自分の被った被害を誇張した時に、それが「小さい頃から愛されたことがなかった無念お気持ち」の表れと理解してくれる人はほとんどいない。
物事の解釈の中にその人の心の底の感情が表現されるのである。だから生きることに疲れたあなたは、周囲の人の視点から解釈すれば、きわめて傲慢な人であり、生い立ちという視点から見れば、本当に同情すべき人なのである。


つらいきもちをうけとめてくれて、「大変ね!」{辛いわね!」「何であなたばかりがそんなに辛いことを体験することになるんだろうね!」と言ってくれればうつ病者は心が癒やされる。
(中略)
(オリジナルの言葉を少し変えますが)同じ体験から生じる感情が健康な人と違うのである。


うつ病者は励まされることを求めているのではない。辛い気持ちを受け止めてくれることを求めているのである。うつ病者はとにかく愛を求めている。(中略)まず何よりも「この辛い気持ちを汲み取って欲しい」と言うことである。事態の改善はその後でよい。
(中略)人間関係で第一に大切なことは、相手の気持ちをくみとることである。
(中略)ただ、この事がきわめて深刻な影響を及ぼすのが、生きることに疲れた人に対してである。生きることに疲れた人医事態を改善する具体的提案をするのは、相手をもっと追い込むことになる。


生きることに疲れた人は、自分がなぜ生きることに疲れたかを考えることである。そこに必ず原因を見つけることができるはずである。


「自分の幸せ」を認められないわけ

一つはそこで「私は幸せ」と思ってしまえば、今まで生きてきた自分の人生が無くなると思えてしまうからである。
(中略)
もう一つの理由は、不幸を訴える人は、それによって周囲の人を責めているからである。
(中略)
彼はここで「私は幸せ」と言ってしまったら、もう周囲の人や自分の人生に不満を言えなくなってしまうように感じるのである。
(中略)
心の底の憎しみが消えていないから、「幸せ」とは言えない。自分が幸せと認めたら、もう周囲の人を責められない。
自分の不幸を誇示する人は、憎しみがあって人を責めているのである。
(中略)
周囲の人は、彼が復習的になっていることを認識していない。周囲の人は、蹴れが自分の運命や世の中や人々に復習しようとしていることが理解できていない。

人を動かす最も大きなものは「憎しみ」

【「心の休ませ方」「つらい時」をやり過ごす心理学 加藤諦三(PHP文庫) 第2章 愛情飢餓感がマイナス発想の原点 P75-P82】

私の場合、かなり甘やかされて育った子でした。しかし、人から認められた経験は、皆無でしたね。それが、今の歪みの一端なのかもしれません。この本の著者は、こうした経歴を持ち、克服していない人のことを5歳児の大人と表現しておりますが、その通りだと思います。
精神年齢が小学生なみをよく叩き出し、未だによくて高校生なみといわれればよい方だからです。
以前御紹介した、特性論の考えを用いた心理テストの結果です。


これは、私が未だに、人に求めてしまうことであります。よく考えれば、以前紹介したコミック「フルーツバスケット」のヒロインである本田透がしていることでもあります。内容を知っている方であれば、うなずくと思います。
相手の目線で同苦して下さる。そして同じ目線で考えて下さる。ありのままの姿を認め、受け入れて下さる。そして、褒めて賞賛もして下さる。ただ、叱咤というアプローチが欠如していることにも注目です。

これは、日蓮大聖人や池田先生の激励行にも通じる姿勢だと思います。違いは激励のために叱咤という形を取ることがあることです。


私自身人への憎しみをコントロールできなくなり、人を多く傷つけてきました。それで、生命力を落としたことも多々あります。

憎しみを気づかれまいとする緊張感で消耗する

心に憎しみがあると心を開けない

人を信じなければ幸せになれない

自分を抑えすぎているから、生きることに疲れる

自分の失敗をありのままに話せる人を探すことである

生きることに疲れた時は、まさにあなたの生き方を変える時である。生きることに疲れた時は、降雨へのターニングポイントである。
(中略)
もし誰にも会いたくないならば、実は今まであなたは嫌いな人に尽くして生きてきたのである。(中略)
生きることに疲れた時、それはあなた自身が自らを分かる時であり、周囲の人がどういう人であるか分かる時である。あなたがあなたの人生を理解する時である。
無理して生きている時には、あなたはあなた自身も周囲の人も分からない。それは人間関係を間違える時である。


【「心の休ませ方」「つらい時」をやり過ごす心理学 加藤諦三(PHP文庫) 第3章 生きることに疲れた時は、生き方を変える時】

心の休ませ方 (PHP文庫)


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