無境界 自己成長のセラピー

もっとも初めの段階である<影>のレベルから見て参ります。
これは、自分お立場、役割、地位、性格、能力といった、自分の1部に過ぎないものをほとんど自分のすべてだと思いこんでいるような意識レベルのことです。
意識している部分を(ペルソナ:仮面という意味から派生して人格という意味)、他の部分を(影:意識のひかりがあたっていないという意味)

ペルソナと影との疎外感が悪化すると、充分に社会的に対応できない神経症などの症状が現れてくる。

無境界 自己成長のセラピーの著者である、ケン・ウィルバーは、その治療としてカウンセリング・支持療法を薦めています。


次の自我のレベルでは、意識はペルソナと影を併せた(自我)までひろがっているが、しんたいとはぶんりしている。身体は自分の所有物や道具であって、自分自身ではないと感じられている。そして身体の欲求が抑圧されて、様々な神経症心身症が起こることがあり、身体を酷使して過労死といったことをおこすことがあります。

無境界 自己成長のセラピーの著者である、ケン・ウィルバーは、その治療として交流分析を薦めてています。


3つ目のレベルである、ケンタウロスは、極論を言えば、マズローがいった自己実現の欲求がある程度満たされた人とすることが、可能かも知れません。論拠は、無境界 自己成長のセラピー P206に『人生自体のプロセスそのものが、よろこびをみいだすことである』とあるからです。
自分が人生に値打ちを感じるものに打ちこむことで、自己実現の欲求は満たされます。
この1点においては少なくとも共通です。ただ、細かい相違は多々あります。
生きる楽しみに目覚めると共に死の不安に目覚める段階でもあることに二律相反があることをケン・ウィルバーは指摘しております。
この段階のセラピーとして、ケン・ウィルバーは、ゲシュタルト・セラピー、フォーカシングを薦めています。


その後の、超越的自己の段階に入りますと、マズローが述べた至高体験をどんどん経験していく境地になります。
この段階で薦めているのは、サイコシンセシスです。

最後の統一意識に至っては、仏教を中心とした宗教修行をすすめています。
創価学会員であれば、まさに日頃の勤行・唱題によってたどり着く位置でもあります。

無境界―自己成長のセラピー論


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