今の音楽に想うこと1

ただいま、ハンス・クナッパーブッシュ指揮のブルックナー交響曲第8番を聴きながら書いております。第4楽章の「死の行進」の遅さとブラスが弱くて野暮ったく聴こえること、音がごつごつし過ぎていることが、個人的には入らないところです。この演奏は、とても人気が高いのですが、私には合わなかったようです。


今のポップスを聴いていて思うこととして、知的な触発や、響きなどで感動する曲が少ないなと感じております。シンセサイザーの技術革新が目覚ましかった70年代から90年代は、それらとシンクロするように、個性的な曲が溢れていました。スタジオ・ミュージシャンの集まりであったTOTOは、マイケル・ジャクソンの1番売れたアルバム「スリラー」で1億枚以上売り上げたり、自らのアルバム「TOTO4」では、400万枚以上を売り上げ、グラミー賞を総なめにしたばかりではなく、噛めば噛むほどかっこいい美しい楽曲が多かったと感じております。80年代のユーロ・ビート、90年代のRobert Miles、70年代のKREUTROCK・YMOなどは、その強烈な音色とビートで魅了しました。メガヒット時代の90年代で見れば、マライヤキャリーや、ブラック・ミュージック界のアイドルTLCによる、R&BとHiPOPの融合、世界のスーパー・アイドルBACK STREET BOYSの美しいハーモニーがありました。楽器のテクノロジーが止まり始めてから斬新な曲は減りました。ゲームでも、ファミコンやースーパー・ファミコン時代の方がメロディーの残る曲が多かったように思います。ゲームの場合は、演出の結果という面から来る面が大いにあります。ポピュラー音楽も売れない時代が来ております。携帯電話に費用が多く注がれること、インターネットの普及などからくる多様化の結果ではありますが、以前ほど誰もが買いたくなる楽曲が減り、またそうした土壌が無くなりつつあることが、最大の理由でしょう。


一流のサウンドは何だろうかを探求するため、クラシックの中で、○○の最高傑作と呼ばれる楽曲を数曲あげました。西洋の音楽は、ヴィヴァルディやJ・S・バッハが活躍していたバロック時代、ハイドンや神童モーツァルト楽聖ベートーヴェンが活躍していた古典派時代、シューベルトワーグナーブラームスブルックナーマーラーらが活躍していたロマン派時代から、新機軸を目指してドビュッシーシェーンベルク、ストラビンスキーらが活躍を始め、だんだんクラシックは、民衆から離れていきました。第2次世界大戦後、ブーレーズシュトックハウゼン、ジョン・ケージらによって実験音楽・前衛音楽が主流となり、芸術音楽は、ほんの極一部の人たちを除き、見向きもされなくなりました。


そうなった理由として、無調音楽が起こり、次第にリズム・メロディー・ハーモニーの3要素が崩れ、楽曲の斬新さ・論理性を重んじすぎるあまり、曲を聴いて感動することがなくなったからでしょう。これは、現在ロマン派回帰が起きていることからも説明ができます。もっともこうした実験音楽が、映画作品のBGMやテクノ始めとしたダンス・ミュージックに影響を与えている面も数多くあり、斬新な音楽が新しい領域を開拓したこともまた事実です。


今では、昔ながらの芸術音楽も、衰退の一途を辿っております。モーツァルト・ブーム、フィギュア・スケート効果、千の風になってミリオンヒット、のだめ効果でここ近年は、若干薄れていますが。


クラシックの名曲、傑作を探していておもしろいことに一つ気づきました。それは、古典派の楽曲形式(ここでは、交響曲ソナタ形式)の典型例の楽曲よりも、そうした形式から少しだけ逸脱した楽曲の方が、傑作と呼ばれている曲が多いことです。音楽の最高峰とも言われるマタイ受難曲・ミサ曲ロ短調は、ハイドンモーツァルトの楽曲に多い全音階ではなく、半音階で書かれていること。モーツァルト交響曲第41番「ジュピター」では、第4楽章の冒頭にフーガを用いなおかつ当時の管弦楽器の関係であまり使われていなかった半音階を多く使ってこと、ベートーヴェンは、交響曲の第2楽章の緩徐楽章と第3楽章のメヌエット(ベートーヴェンの場合は、第8番以外スケルツォに変わっている)を逆さまにしたり、第9では合唱まで登場、和声法の禁則も極一部で使用しました。ワーグナーブルックナーは、ベートーヴェンの第9をひな型に、和声法ぎりぎりの転調を多用しました。結果的に古典派の様式を取りながらも(J・S・バッハの場合であれば、フーガや当時の宗教曲などの規則・形式)、そのルールの中で、少しだけ方を破った作品に傑作が多かったのです。
ソナタ形式にフーガを徹底的に取り入れる試みも、ブルックナーである程度完結した感があります。
こうして書いていくと、疑問が起こります。古典派が何を持って古典派としているかについてです。古典派が目指したものは、形式と内容の一致でした。つまりは、古典派とよばれている理由は、古今東西の中でも、厳しい制約の下生まれた珠玉の曲が、古典派の時代とよばれ、古今東西を見ても、これほどまでに、形式と内容の一致が出来た例がないからでしょう。

これからは、形式と内容の一致を目指しながらも、これまでの芸術音楽、フュージョン民族音楽のビートや響き、現代の前衛音楽・実験音楽の斬新なアイディア、これらを受け入れつつ。仏法の精神を内に秘め、なおかつメロディアスな作品が求められているのではないかと思うのです。



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