芸術と社会

今夜は、池田先生とウィルソン博士の対談集社会と宗教から、話を進めて参ります。

池田:特定の宗教・思想を宣揚する内容を持った芸術は称賛され、また芸術家がそうしたものを創造するように仕向けられることが多く、それらの分野については創造が進むかもしれませんが、それ以外のもの、特にその思想に反する内容のものは、徹底的に排斥される傾向が強いという指摘です。
私のその考えには、全面的にではありませんが、賛成です。
(中略)
人を暗く悲しませるもの、死を賛美するかのような芸術よりも、未来に希望を与え、明るくさせる者の方を好むからであり、私は、芸術なら何でもよいというような考えには、なかなか馴染めません。といってもこれは、まったく私の好みの問題であって、それを人に強制しようという考えは、少しももっておりません。芸術に、道徳的な、あるいは思想的な目的を持たせようとすること自体、芸術を手段化することであり、芸術はそれ自体、目的であるという考えを否定しようとは思いません。芸術は、たしかに個人の好みの問題でもあるわけですから、要はそれを、いかなる人にも強制しないことが大切であると、私は考えています。
 もし、その思想あるいは宗教に、真実、人々に訴えかける内容があるならば、何らかの方向づけを与えなくとも、十分にその内容を繁栄したものが出てくるはずだと考えます。


ウィルソン:芸術が、特定の宗教やイデオロギーへの奉仕を強いられるのは不当なことだとのご意見には、私も全く同感です。実際、そんなことになれば、純粋な想像力を、枠にはまった形式や命じられた内容にすりかえて、自己の利益のみに奉仕するような芸術家ばかりになってしまうことでしょう。芸術家、自分に伝えられた概念をただ解釈するだけの、単なる技巧家になってしまいます。
(中略)
 芸術上の想像力と宗教的な世界価値と意義が充満し、緊密な親近制があることも事実です。
宗教家の抱く世界観には価値と意義が充満し、象徴的要素が響き渡っています。
(中略)
 芸術家は、他の人々なら捨て去ってしまったり、あるいは少しも気付かないでいるような事象に、深い意義を感じることができるのです。
 宗教家と同じく、本来、芸術家もまた、意義に満ちた世界に生きています。そうした世界では、多種多様の事物が感動を呼び起こしてくれますし、そこには様々な価値が暗に含まれています


池田:宗教も芸術も、内面世界を根本とし、外的世界はその内面世界の投影といった意義を持つものになります。


ウィルソン:宗教と芸術は、ともに様々な事象と相互に影響し合いながら、冷徹な客観性ではなく、情緒的な共感を求めるものです。科学的伝統が、大正を客観的に見て距離を置くことを要求するのに対して、宗教と芸術は内的な実在を理解することを求め、もっぱらその主観的な認識と独自の解釈を旨とし、そこでは対象に対して距離を置くことよりも関わりをもつことが不可欠になります。宗教と芸術にとって、世界は、単に科学的に測定できるものではとうていなく、事物の表層下に横たわる種々の意味に浸されているのです。
 過去の偉大な宗教的伝統の中では、芸術家は、少なくとも信仰者と同じ共鳴を感じていましたし、同種の世界を把握していました。ですから、芸術家は、篤信家と同じ文化的示唆を受け、その宗教的伝統から筋書きや人物像、象徴や主題を提供してもらって、自分の芸術的創作に表現したのです。
 これに対して、現代の世界では、どの自由社会でも価値が多元化しており、このため芸術家には、過去の宗教的世界観から得られたような、重要な文化的テーマがありません。その結果として、芸術自体、その主題が以前よりも一貫性がなく、分散したものとなり、その価値が多様化しており、このために、一般の人々にはなかなか理解できないものになっているのです。ひとつの危険性は、芸術が過度に個人化しているということです。
 文化が一貫性と連続性に欠けるため、芸術家に作風を与えることができず、そのために芸術家達は作風を求めて奇抜な表現をし、自意識過剰になっているのです。彼らの芸術は、もはや自己の人格の本来的なものから生まれるのではなく、移ろいやすい時代のファッションや流行に由来するようになります。
 人間社会に一貫した価値体系が失われる時、何よりも芸術は、重大な影響を受けずにはいられません。そうなると、人々はかなり懐疑的な目で芸術を見るようになりますが、だからといって、それがあながち誤りだとはいえません。(中略)以上のような意味において、まとまりをもった価値体系を失えば、芸術家が全くの個人的レベルを超えて何らかの一般的な価値を社会に伝達することが困難になる、いやそれどころか、機構をこらすことしかできなくなる場合が、逆説的にでは、ありうるのです。
 現代社会はあまりにも開放的であり、多元的であるため、「芸術と偶然はひとつに収束する」などと一部の芸術家が公然と信じているような現状では、もはや技能さえも必要ではないのかもしれません。


【社会と宗教(上) B.ウィルソン・池田大作 共著 聖教新聞社

昨日今の音楽に想うこと1 - 信心の王者たれ!を書いたときから、結論が大きく変わりそうですと書きましたが、そのキッカケとなった書がこの対談集でした。


この本が出版されたのが1985年であり、今年で出版されて24年となります。

まず、今の音楽に想うこと1 - 信心の王者たれ!の時は、仏法の精神を内に秘めた作品をということを書きましたが、それは、特定の宗教・思想を宣揚する内容を持った芸術は称賛され、そうしたものを創造するように仕向ける危険性があり、ゆえにそれ以外のもの、特にその思想に反する内容のものは、徹底的に排斥しがちになる要素を秘めていることです。前回は、形式と内容の一致を目指しながらも、と書きましたが、社会主義政権下で行われた考え方の統制によってそうしたこと矯正された結果傑作があまりでなかった時代もあります。文学では、トルストイが自分の文学を社会の福祉向上にとし向けた結果、晩年に執筆された『復活』などの作品が、自ら書いた『戦争と平和』・『アンナ・カレーニナ』ほど社会に影響を与えなかったという事例があります。

私自身が、それに陥っていないか注意して参ります。

しかし、この対談集で書かれている警鐘は、時を経るにつれて真実性を帯びているように思います。

文化が一貫性と連続性に欠けるため、芸術家に作風を与えることができず、そのために芸術家達は作風を求めて奇抜な表現をし、自意識過剰になっているのです。彼らの芸術は、もはや自己の人格の本来的なものから生まれるのではなく、移ろいやすい時代のファッションや流行に由来するようになります。

20世紀に生み出された芸術(特に音楽)は、あまりにも前衛的・実験的過ぎて民衆からの支持は得られませんでした。今のポップスや映画は消費芸術と言われますが、そこには消費するもの・消耗品というニュアンスを常に秘めているわけです。不景気で収入が落ちたこと・共通する価値体系がないために、買いたい・見に行きたいといわせるものといいますか、心に残るものが生まれにくくなったように思います。


流行しているファッションの如く、どんどん移ろっていきます。そして時間が経って残るものは、ほとんどありません。
私の場合、詩であれば歌詞から感動することがあまりないために、その傾向が顕著であるかもしれませんね。


こうして対談集を読んでいて思うこととしまして、良書とよばれているものは、何かを思索しているとき、読み返して触発を受ける本が多いように思います。私が、読み返すたびに触発を受ける本は、池田先生とトインビー博士との対談集『二十一世紀への対話』です。おそらく、後世に多くの人に読むたびに歓喜であるとか、触発を与える本が、古典と呼ばれているのだと、私は思うのです。

あと、1-2回ほど、このテーマを考えるにあたり、影響を受けた本を紹介して参ります。それを、終えたときに、結論を書いて参ります。



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