チベット仏教の儀礼音楽から、ヒーリング・ミュージックや音楽のあり方の考察

ヒーリングという視点から、ニッチな曲から参ります。

チベット密教 聲明の驚愕とチベット仏教の声明~ナムギェル学堂僧侶。
チベット密教 聲明の驚愕は、ホーミーのように1人で2つの音を出す独特な歌い方をしております。タイトル通りチベット仏教の経典を朗唱しているものです。オペラのバスより低い声で歌っているため非常にドラ声であり、気持ち悪いという印象を持つ方もいると思います。なお、世界で1番声域が広い人は8オクターブ、つまりピアノ並みの声域であり、それから見ればまだ低くないとも言えます。ちなみに、私が、持っているCDの中では、最も声が低いです。チベット仏教の声明~ナムギェル学堂僧侶には、チベット仏教で最高の教典とされる、カーラ・チャクラの儀礼音楽が入っております。ここからは、ニューグローヴ音楽大事典や様々なレビューを見て、私になりにまとめたものとなります。以下、

 チベット・ホルンの轟然たる超重低音。交錯する光のようにきらびやかな打楽器、宇宙的な広がりを持った音。獰猛といえる程の静けさと鳴響の世界。目もくらむような極彩色に色どられながらも、渋さと暖かみを感じさせる世界。
 無意識のうちに聴く者の精神を高揚させていく聲明(せいめい)の響きには、複数の極限に近い低音の声同士が絶妙にぶつかりあって発生する豊富な倍音成分が含まれています。大きなうねりとともに強いビートをも感じさせる声と怒濤のように押し寄せるホルンと太鼓の饗宴が織りなす法要の世界は、まさに極彩の響きに輝く、絢爛たる魅力に溢れています。また、これらの重厚な響きが持続する音世界に、突如空間を切り裂くような鋭い金属音を持つシンバルやベルが加わる効果には、絶大なものがあります。瞑想と覚醒がブレンドされているところに、密教音楽の神髄があるといってよいでしょう。静かでありながら深い響き。詩句すべてに韻を踏み、各マントラごとにシラブルも整っております。
 チベット仏教のこの儀礼音楽はラマ教の奥義を声明と合奏で祈念する曼荼羅の世界を表現しています。初めは一見無秩序な音空間を表現しながら、最後には見事なハーモニーで締めるところは苦悶から救われる喜びを覚える人もいることでしょう。魂とかチャクラあたりで心地よい感じが得られて、苦悶から解放されて安らぎを得て癒されながらパワーを感じる人もいるかも知れません。
 静かな読経と大地を揺るがすような合奏が交互に来るような曲のため、底にトランスやミニマルテクノの感覚を覚える人のもいることでしょう。
 声明の音が物体となって自分の体の中にグワ~ングワ~ンと響き渡っている感じがして、そのショックで思わず我に返りました。そうすると、いつもの音でしたが・・・。ただ、その体験があって、本物の声明の力というようなものがわかった気がしました。最近では、その体験を思い出しながら聴いていると、やはり眠り込む寸前に、実に不思議な感覚に入ります。体がなくなるような感覚といいますか。

響きについては、おおむねこういったところです。レビューを見ていると、かの心理学者マズローが述べていました超越体験を意図的に起こす音楽と、捉えることが出来るように思います。

 チベット仏教の声明は、仏教の教義と共にインドからチベットに伝来したものが、土着化、変容したものといえます。西洋音楽の声楽の極限音域をはるかに下回るところで歌い、倍音成分をたっぷり増幅する唱法により、重音歌唱が実現されております。
 仏教音楽とチベット声明:大衆の教化の際、言葉のみを持って行うよりも、音を伴った方が遙かに魅力的であり、説得力をもちうる。さらに言葉がなくとも音のみでその役割を果たすことさえ可能である。ある一打の鐘の音が大衆に深い宗教的感銘を与えることもあるでしょう。
 仏教において音楽が果たすもう一つの大きな役割は、仏などへの礼拝、讃美、供養という直接的役割であります。言語は発音される場合、そこには必ず何らかの音の高さと長さがあるはずです。その音の高さと長さが何らかの様式を持って定まった時に音楽が生まれてきます。
 法会では、器楽も重要な役割を果たす。仏教音楽における器楽は、法会や種々の作法の進行、および声明の伴奏、あるいは仏菩薩の供養・送迎・驚覚などの機能を持っており、後者は時として言葉を伴った声明を表示することがある。特に密教では金剛鈴などの音が他のいかなる音声にもまして大切な場合がある。楽器は本尊に対する供養のためとされ、丁寧に演奏されます。
(リズム)2・4・5・9拍子が多く3・4拍子の複合系や4.5拍子などもあります。弱起によるリズムパターンが興味深いです。
(音高構造)他の宗教声楽と比べて相対的に音域が低いです。音域は広くて1オクターブ程度であり、あまり広くありません。
(器楽)打楽器を用います。法会でも管楽器を用います。管楽器でメロディーを受け持つのはチャルメラのみであり、他はただ断続的に吹くのみであります。
打楽器では金剛鈴や手太鼓は等間隔に連続して振り、最後は数回速く回して振り切ります。
 チベット仏教において音楽は常に精神的啓蒙の重要な手段であります。音楽によって魂・生命は真実に導かれこの真実だけが人間のうちに秘める仏界を涌現させることが出来ます。
音楽は形のない超宇宙の真実と、そこから不可分である有形の無上な世界を同時に表現したものです。これらの音楽はいろいろなレベルに存在し、祈りや能力の修養と同じく有益です。人間革命下物のみが作曲をすることが出来ます。なぜなら音楽の基本となるマントラが常に聞こえているからであります。すべての音が絶えた静寂の時に、人間の身体に聴くことの出来る音と神聖な楽器を緊密に結びつけました。
 複雑な楽器群と穏やかで抑制のきいた単声の声明が、交互に演奏され、時間制から非時間制へ、メロディーから一つの音響の集合体へ、音から沈黙へと移行する観念を創造します。これは名称や形象を超えて仏界に達するための音の表現であります。

私としては、

音楽によって魂・生命は真実に導かれこの真実だけが人間のうちに秘める仏界を涌現させることが出来ます。
音楽は形のない超宇宙の真実と、そこから不可分である有形の無上な世界を同時に表現したものです。
複雑な楽器群と穏やかで抑制のきいた単声の声明が、交互に演奏され、時間制から非時間制へ、メロディーから一つの音響の集合体へ、音から沈黙へと移行する観念を創造します。これは名称や形象を超えて仏界に達するための音の表現であります。
 

こうした精神性で、こうした表現を、今に生かすことが大切と考えます。こうした精神性は、見習って良いものだと考えます。

もちろん、仏界の涌現は、日々の活動、折伏弘教、勤行唱題していく中でしかありません。ただ、こうしたより高みに向かっていくサウンドという面で、参考になることはあるでしょう。

その他、多くのブレインシンクなど意図的に特定の脳波を発生させると評している音を聴いていて思うこととして、低音のバイブレーションでそうした効果を起こそうとしているものが多いように思います。クリスタル・ボウルの楽曲も同じ傾向だと、私自身聴いていて感じております。

意識がはっきりとしていて、なおかつクリアな感じで深いトランス状態になったと感じさせる傾向があるように思うのです。

モーツァルトの曲、ヴィヴァルディの春といったタイプの癒し系とされている曲は、明るく軽く爽やかで、人に清々しさを与える、先ほどあげた楽曲とは全く正反対の安らぎを与える曲のように思います。

その楽曲の重厚さ、瞑想的に聞こえるという点では、パッヘルベルのカノンやバッハの楽曲は、チベット仏教儀礼音楽に似ているように、思えます。それは、聴いているだけで眠気を覚えることが多いであろう、インドの伝統音楽についても、瞑想的であり、チベット仏教儀礼音楽やバッハの楽曲に似ているように思います。



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