2009年 第34回「SGIの日」記念提言

「貨幣」に対する際限のない欲望

 今回の(金融)破綻の最大の原因は、いうまでもなく、一説には世界のGDPの4倍にものぼるとされる金融資産の跳梁跋扈にあります、「暴走する資本主義」「強欲資本主義」等の言葉が飛び交っているように、本来、経済活動を円滑化するための"脇役"であるべき金融が、"主役"の座を占拠し、それがどのような余波をもたらすかなど我関せず、ひたすら利益、儲けのみを追い続ける人々が時代の寵児の如くもてはやされてきました。
 その根底には、「貨幣愛」に取りつかれたグローバル・マモニズム(拝金主義)ともいうべき文明病が横たわっております。
 グローバルな市場経済を差配する「貨幣」とは、紙か金属片(最近では電子情報)にすぎず、周知のように使用価値は、皆無に等しい。有するのは、交換価値のみです。交換価値とは、人間同士の約束事として成り立っているもので、本質的に抽象的、非人称的な存在といってよい。それは、財やサービスのように具体的な、それ故に限定的な対象物をもたず、際限のない広がりをもつ。欲望の対象として際限がない。そこに「貨幣愛」というものの特徴というか宿命的な病理があります。


哲学者マルセルが警告していたもの

 金融市場のみならず市場経済全体を貫く「効率性と不安定性との根源的な『二律背反』」が指摘される所以でしょう。利潤をあげるための限りなき効率性の追求と、実体の裏付けを欠く貨幣というものの不安定性―それは、「個人」の自由な経済活動を基調にした市場経済が発達した現代の宿命といえるかもしれません。
 (中略)いうまでもなく抽象作業そのものは、人間の知的な営みに欠かせないものです。早い話、「人間」などというものは存在しない。実質は、日本人やアメリカ人であり、男や女であり、青年や壮年であり、何々県人でありと細分化していくと、つまるところ、十人十色一人として同じ人間はいません。それが具体性の世界の実像です。それをきちんと踏まえた上で「人間」を論じないと抽象概念が独り歩きしてしまう。
 マルセルいうところの「抽象化の精神」とは、その具体性から乖離した悪しき独り歩きの謂いであります。
 (中略)一番の問題は、そうした「抽象化の精神」は、ニュートラルで(中立的)で没価値的な境位に止まっていず、「価値貶下的な帰納(価値を貶めるための決めつけ)を引き起こす「情念的側面」、怨念(ルサンチマン)を随伴している点にあります。
 すなわち、抽象的概念で括ったとたん、それらは、無価値なもの、低級なもの、有害なものとして、駆除されるべき対象の位置まで貶められてしまう。人格的存在としての「人間」は不在となる。「抽象化の精神は情念的な本質をもっているものであり、逆にいえば、情念が抽象物を捏造する」と述べるマルセルは、故に自分の哲学上の全仕事は「抽象化の精神に対する休みなき執拗な闘い」と位置づけている。


人間の正視眼が見失われた社会

 現今の金融危機、経済危機の経緯に目をやる時、時流は、ある種の「抽象化の精神」にからめとられてはいないでしょうか。「貨幣」の抽象性、非人称世界に住するメドゥサの魔力の餌食となって、それを、人間社会に不可欠なものではあっても、あくまで約束事、バーチャル・リアリティー(仮想現実)にすぎないと看破する、「人間」としての正視眼を失い、貨幣への「崇拝」あるいは「呪詛」といった「情念」に目をくらまされてはいないでしょうか。

 拝金主義とは、いうまでもなく「崇拝」の産物であり、「貨幣」という物的欲望を超える欲望の虜になって、会社に例をとれば、その社会への貢献といった"公"の側面など無視して、短期的な利益にしか関心のない株主の″私的″意向が最優先され、経営者、従業員、顧客・消費者などへと広がる具体的な人間の繋がりといった人称世界の具体的な事どもは、二の次、三の次として、捨象されてしまう。――不本意ながらもそういう嫌な役回りを演じざるをえなかった、という良心的経営者の嘆きの声が、世界の各地から聞こえてきます。

 「全体人間」であって初めて、真に人間たりうるという人間の条件を忘失し、「抽象化の精神」の化身ともいうべき、貨幣的価値しか念頭にない「経済人」(ホモ・エコノミクス)へと、それとしらず身を貶めてしまっている――金融主導のグローバリゼーションは、その種の人々を、おびただしく輩出してきました。

 クローバリズムと反比例するかのような人々の閉塞感は、"利"に目が眩み、「私は、私と私の環境である」(A・マタイス/佐々木孝訳『ドン・キホーテに関する思索』現代思潮社)というオルテガ・イ・ガセットの不朽のテーゼなど我関せず、自然環境や文化環境(由緒ある町並みや地域コミュニティーなど)を破壊しておいて、なおかつ人間社会が存続し得るかのような錯覚に陥っている傲慢なエゴイズムの、自ら招き寄せた末路とはいえないでしょうか。

 もとより「経済人」といっても特定の人間を指すのではない。資本主義そのものに内蔵されているベクトル(力の方向性)の所産であって、株主は当然のこと経営者や従業員、顧客・消費者といえども、資本主義が純化されてくればくるほど、そのベクトルに従わざるをえなくなる。従わなければ、少なくとも短期的には損をする。


資本主義の暴走が招いた社会の混迷

 『勝者の代償』以来、ニュー・エコノミー(現代資本主義)の行き過ぎた動向に警鐘を鳴らしてきたロバート・ライシュ氏(クリントン政権時の労働長官)は、近著『暴走する資本主義』(原題は『超資本主義』。雨宮寛・今井章子訳、東洋経済新報社)で、「全体人間」の帯びる多面的性格を、端的に「投資家」「消費者」の側面と「市民」の側面との二つに要約し、「厄介なことに、私たちはほとんどみな二面性の持ち主なのだ。消費者や投資家としての私たちは有利な取引を望むが、市民としての私たちはその結果もたらされる社会的悪影響を懸念する」と指摘しています。

 肝心なことは、両者のバランスをどうとるか(全体人間たろうとするか)にあるが、「超資本主義」の下では「消費者と投資家が権力を獲得し、市民が権力を失ってきた」と。

 その結果もたらされたのが、資本主義の優位と民主主義の劣位であります。そこを席巻する拝金主義という一元的価値観が、世界的に所得格差の拡大、雇用の不安定化、環境破壊など、資本主義の負の側面を増進させてしまった。

 それどころか、最近の金融危機、経済危機は、正の側面である富の拡大という面でも、実体と乖離した胡散臭いものではないかという疑念を満天下にさらしてしまいました。

 規制緩和や技術革新を追い風に順風満帆のように見えたグローバリゼーションも、今や世界同時不況という台風並みの逆風にさらされています。自由競争に任せておけば、市場は万事うまく運ぶといった予定調和的な行き方の破綻は、誰の目にも明らかなのですから、かつてない難局への対応は焦眉の急を告げています。

 金融資本の目にあまる暴走には、ブレーキをかけねばならないし、企業実績の急激な落ち込み、それに伴う雇用情勢の目を覆うばかりの悪化は、可能な限りでの大胆かつ迅速な対応(財政、金融面での支援、セーフティーネットの整備など)が急務であることは論を待ちません。

 特に私どもが忘れてならないのは、今日の国際情勢を覆う貧困の問題です。それは、職業という人間の根源的な営みを脅かし、生きる意味、目的、希望など、人間の尊厳、社会の存亡に関わるものだけに、総力を挙げて取り組んでいかなければならない。今こそ、大所高所に立った経綸の才が求められていることを、特に政治家は、自覚すべきであります。グローバル資本主義という暴れ馬の手綱を引き締める役割は、何といっても「政治」や「国家」に課されるところ大であるからです。

 同時に、「国家」による統制、コントロールに期待する余り、万が一にもファシズムの台頭を許した1930年代の轍を踏むようなことがあってはならない。その意味からも私は、マルセルのいう「抽象化の精神」の警鐘に耳を傾ける必要があると思います。


「呼称」が先行し独り歩きする弊害

 日本では、グローバリゼーションの「負」の現象として、「格差社会」や、「勝ち組」「負け組」といった嫌な言葉が飛び交っています。

 いうまでもなく、昨今のように生活が脅かされる人々が続出する事態は一刻も放置できず、何らかの対応が必要不可欠なること、繰り返すまでもありません。それと同時に留意すべきは、これらの現象を十把一絡げに、抽象的な「呼称」で括ってしまうと、個々の努力といった人間の具体的な事実の世界が見えにくくなってしまうということではないでしょうか。

 どんな境遇に置かれようと、社会状況が厳しくとも、外的条件にのみ依存するのではなく、気力を奮い起こして壁に立ち向かっていく多くの人たちの実像は、そうした「呼称」からはほど遠い。

 勝ち負けといっても、永遠に続くものではなく、またそれらの「呼称」が、経済至上主義的な価値観から一歩も出るものではなく、全人格的価値を覆うに足らずと、勝って傲らず負けて挫けず、毀誉褒貶を眼下に見ながら、悠々と生きている人々を、有名無名を問わず、社会は数限りなく有しているはずであります。

 十把一絡げな「呼称」があまりにも頻繁に使われると、そうした人間としての価値や尊厳性、創意工夫をこらして苦難に立ち向かおうとする気概や勇気を矮小化し、それに水を差す結果をもたらしかねないのではないでしょうか。

 その結果、マルセルのいう「何か最後の審判の雛型みたいなものを見ようとする弱い精神」、人間性に背を向けた、他力本願的な暴力志向への誘い水になってしまいはしないかということを恐れるのであります。

 13年前、アメリカ経済が"我が世の春"を謳歌していた頃、『ニューズウィーク』誌は、「理想の社会はどこに」との特集の冒頭で、「うまくいっているのに、誰もが不満をもっている。それが私たちの時代のパラドックスだ」と書き起こしていました。

 専ら金銭的収入の多寡という物差しでしか、人間的価値の優劣を論ずるしかない経済至上主義、拝金主義の地平には、原理的に"自足"はありえません。
 常に何がしかの怨念――不満や羨望が渦巻き続け、それは、社会を停滞させる"嫉妬社会"の温床であります。

若者に贈られた文豪からの助言

 昨年亡くなった友人で世界的文豪であったチンギス・アイトマートフ氏の言葉を想起します。

 氏は「父親としての助言」として、「若者たちよ、社会革命に多くを期待してはいけません。革命は暴動であり、集団的な病気であり、集団的な暴力であり、国民、民族、社会の全般にわたる大惨事です。(中略)無血の進化の道を、社会を道理に照らして改革する道を探し求めて下さい」と切々と語っていました。

 マルセルが「弱い精神」からの決別を訴えたのは、ファシズムよりも共産主義(=ソビエト社会主義)への警戒を第一義としていました。

 執筆時期が1951年(ファシズムは壊滅し、共産主義は声望を維持していた)であることから当然ですが、彼が最も警戒したのは、「失うものは鉄鎖のみ」「収奪者が収奪される」といった抽象的なスローガンが、あたかも歴史的必然であるかのように装い、怨念をかきたてて、革命という大義のもとに暴力、流血の惨事を招き寄せてしまうからです。

 70年余にわたる社会主義の興亡の歴史は、彼の洞察の正しさを十二分に立証しております。

 また、貨幣に象徴される拝金主義的な価値観への嫌悪、呪詛にもかかわらず、かつての社会主義が、ついにそれを乗り越えることができなかったことは、歴史の重い教訓といえるのではないでしょうか。

 そろそろ、発想を転換し、文明論的なパラダイム・シフト(思考の枠組みの転換)を図っていかなければならない。

 暴走する資本主義にブレーキをかけるために何より有効なのは、法的・制度的な統御であることは前述しましたが、それらが、その場しのぎの弥縫策に終わるのではなく、長期的なビジョンに繋げていくためには、パラダイム・シフトを避けて通ることはできないと思うのであります。

 80年前の大恐慌の頃は、資本主義に取って代わるものとして、曲がりなりにも社会主義(共産主義であれ、国家社会主義であれ)というパラダイムがあった。

 しかし、今は、それに代わるような理念、ビジョンは、提起されておりません。


「理念」に基づく「世界像」の探求を

 ところで、サルコジ仏大統領のブレーンであるジャック・アタリ氏は、『21世紀の歴史』(林昌宏訳、作品社)で端的に分析しています。いわく、「現状はいたってシンプルである。つまり、市場の力が世界を覆っている。マネーの威力が強まったことは、個人主義が勝利した究極の証であり、これは近代史における激変の核心部分でもある」と。

 すなわち、グローバルな拝金主義とは、半面、あらゆるしがらみから自由になった個人主義の勝利であり、「貨幣」の抽象的普遍性は、労働力商品としての「個人」の抽象的普遍性とコインの表裏を成しているということでしょう。いうまでもなく、この個人主義をベースに、自由や人権等の普遍的理念も形成されてきたのであり、資本主義と近代民主主義は、かなりの部分で重なっている。

 今、資本主義や民主主義を内実とする近代社会のシステムが、抜き差しならぬ袋小路にあるとすれば、何としても、それに代わる普遍的な視座、往時のプロレタリア国際主義の轍を踏むことのない新たな理念の地平を切り拓かねばならない。危機回避のための差し迫った対応は当然のこととして、より巨視的な展望に立った、例えば、マックス・ヴェーバーが、「人間の行為を直接に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、『理念』によってつくりだされた『世界像』は、きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し、そしその軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきた」(大塚久雄・生松敬三訳『宗教社会学論選』みすず書房)と述べたような時代精神が、今こそ構想されねばならないでしょう。善かれ悪しかれ、地球社会のグローバル化は、そこまで進んでいるからです。


100年以上前の先見的な発想

 そこで私が、資本主義の袋小路を抜け出すための発想の転換というか、新たなパラダイム・シフトヘのヒントとして提唱したいのが、創価学会牧口常三郎初代会長が、100年余り前に32歳で世に問うた『人生地理学』で提起した「人道的競争」という概念であります。

 牧口会長は、人類史を俯瞰しながら、生存競争は軍事的競争、政治的競争、経済的競争をへて、これからは人道的競争を目指すべきだと訴えました。

 もとよりそれらは、截然(せつぜん)と区分けできるものではなく、例えば軍事的背景をもった経済的競争もあれば、逆もまた真である、といったふうに、多くの場合、輻輳し重なりあいながら、漸進的に変化を遂げてくる、その過程を丹念にかつ大胆にたどってみれば、紆余曲折をへながらも、人類は凡そそのところ、その方向を目指しているし、そうあらねばならない。――こうして牧口会長は、超歴史的観点からではなく、学者らしく、歴史の内在的発展の論理をたどりながら、「人道的競争」という帰結に至っているのであります。

 その中身に目をやれば、短い記述のなかに、今なお新しいというよりも、時とともに輝きを増す洞察がちりばめられております。

 例えば、「武力若くは権力を以てしたると同様の事をなしたるを、無形の勢力を以て自然に薫化するにあり。即ち威服の代わりに心服をなさしむるにあり」(『牧口常三郎全集第2巻』第三文明社。現代表記に改めた)と。

 このくだりなど、私の知友に引き寄せていえば、何度かお会いしたハーバード大学のジョセフ・ナイ教授の「ソフト・パワーとは何なのか。それは、強制や報酬ではなく、魅力によって望む結果を得る能力である」との指摘と、瓜二つではないでしょうか。

 また、牧口会長の言葉に「要は其目的を利己主義にのみ置かずして、自己と共に他の生活をも保護し、増進せしめんとするにあり。反言すれば他の為めにし、他を益しつつ自己も益する方法」とあります。

 これは、アメリカの未来学者ヘイゼル・ヘンダーソン博士の提唱する"Win‐Win World"(皆が勝者となる世界)と強く響き合っていないでしょうか。あらためて、若き牧口会長の洞察に思いを致さざるをえないのであります。

 残念ながら、その後の歴史は牧口会長の期待を裏切ってしまったが、100年の歳月を閲した今こそ、「人道的競争」という先見的着想、ビジョンヘと、パラダイム・シフトしていくべき"時"であると声を大にして訴えたいのであります。

 なぜなら、指摘するまでもなく、資本主義のもたらす弊害を除去するために、社会主義が標榜した「平等」「公正」等のスローガンは、国内的にも国際的にも、まさしく「人道」、ヒューマニズムに立脚した理念以外の何物でもないからであります。制度としての社会主義の失敗ともども、それらをも葬り去ってよいものでは、決してない。そうであっては、なぜ社会主義運動が、人々とくに若者たちの心をとらえ、一時は地球の1/3までを席巻するに至ったのかという、20世紀の貴重な教訓までも忘却の淵に沈めてしまいます。

 正しい理念を標榜しながら、なぜ社会主義は蹉跌を余儀なくされたのか?

 今さら論ずるまでもないことですが、本論に即して一言でいえば、牧口会長が 「苟(いやし)くも天然、人為の事物によりて自由競争の阻礙(そがい)せらるる所。是れ沈滞、不動、退化の生ずる所」と喝破した、人間社会の活力の源泉である「競争」的側面を、あまりにも蔑(ないがし)ろにしてしまったからだといってよい。階級をなくし外的条件さえ整えれば、人間らしい社会が実現するかのごときバラ色の未来像に寄りかかりすぎました。

 エゴイズムの赴くままの野放図な自由競争は、弱肉強食の社会ダーウィニズム(自然淘汰主義)に陥りますが、適正な枠組みとルールに基づく競争は、人間と社会に活力をもたらします。それ故に、競争的側面を直視しつつ、むしろ人道という価値を基盤におく競争に転換し、「人道」と「競争」の両方の価値を相乗的に顕現させようとする「人道的競争」こそ、21世紀を拓きゆくパラダイムの先駆けたりうるものではないでしょうか。


訳知り顔で一挙に未来を語る傲慢さ

 しかし、新たなパラダイムヘの模索のプロセスは、マルセルの警告するように、あくまで具体性に即してたどらなければならない。

 一挙にそして訳知り顔に、人類史が目指すべきグランドデザインを提示しようなどという性急さ、思い上がりは、「抽象化の精神」の格好の餌食になってしまうにちがいない。その点は、ソ連邦興亡の歴史に照らして、ゴルバチョフソ連大統領が「20世紀の精神の教訓」として、警鐘を鳴らしていたところであります。

 その点、歴史の生き証人として、ゴルバチョフ氏はさまざまな例証を挙げていましたが、中から、世界的なオペラ歌手フョードル・シャリャーピンの、いかにも芸術家らしい機知に富んだ証言を紹介しておきます。

 「不幸にも、われらがロシアの"建設者たち"は、ほどよい、いかにも人間的なプランにしたがって、平凡な人間向きの建物を建てるところまで、自分を凡人化しようとはしなかった。どうしても、空中にそびえ立つ塔・バビロンの塔を造ろうとしたのです。彼らは、ごく普通の調子の健康的な歩調で、人々が仕事に行き、また、仕事から家に帰ってくるようなことに満足できなかった。彼らは、すぐに"7マイル間隔"の歩幅で未来に突進しなければならないと思ったのです。"古い世界に別れを告げよう"と思うや否や、すぐにでも、古い世界を根こそぎ何も残らないように、一掃してしまわなければならない。何よりも驚くべきは、われらがロシアの″賢人たち″が何でも知っているということなのです。彼らは、―(中略)―兎にマッチのつけ方を教えるにはどうすればいいかも知っている、その兎が幸せであるためには、何が必要であるかも知っている、そして二百年後のこの兎の子孫が幸せであるためには、何が必要であるかも知っている」と。

 やや長い引用になりましたが、「抽象化の精神」の虜になった人間が、いかに民衆の具体的生活、生活実感からかけ離れたモンスターと化すかを、カリカチュアライズ(戯画化)しながら、活写しております。

 「ほどよい、いかにも人間的なプラン......」「ごく普通の調子の健康的な歩調......」とは、マルセルいうところの具体性と重なります。この具体性の世界から足を踏み外し、「抽象化」に魅入られてしまうと、思わぬしっぺ返しを受けざるをえない。


人間社会を蝕む「隣人の否定」

 アイトマートフ氏も私との対談で取り上げていた有名なエピソードですが、スターリン時代、パヴリック・モロゾフという少年が、父親が富農(クラーク)と親密であることを、当局に密告した。父親は犠牲になり、少年は、怒った親族の手で殺されるが、逆に当局からは、社会主義少年英雄として銅像まで建てられ、宣揚された。――イデオロギーという「抽象物」が、親子の情愛という「具体的」なモラルを飲み込んでしまった一例であります。

 マルセルは、その一方でアメリカに代表される産業文明、機械文明の病理にも容赦しませんでした。「まさしくテクノクラシーこそ、何よりも隣人の抽象化をなして、ついには隣人を否定するところに成立つ」と。

 半世紀たった今日、テクノクラシーの延長上にある金融工学を駆使した金融商品で巨額の利益を追い求める一握りの富者が、貨幣という「抽象物」の化身さながらに、膨大な貧者に目もくれず巨万の富を独占している惨状が、マルセルの切っ先を逃れることができるでしょうか。「隣人の否定」の上にしか成り立たないような繁栄など長続きするはずがないし、また、させてはならない。
 私は、まだソ連邦が存続していた20年前のこの提言で、普遍的な視座、理念へのアプローチは、「外在的」あるいは「超越的」なものであってはならず、徹して人間に即した「内在的」なものでなくてはならないとして、「内在的普遍」ということの重要性を訴え、多くの識者の賛同をいただきました。

 イデオロギーや貨幣の普遍性とは、まさに「外在的」「超越的」普遍性であり、「抽象化の精神」の産物なるがゆえに、具体的存在としての人間や社会を蚕食してやまないのであります。私の申し上げる「内在的普遍」とは、その対極に位置しており、徹して具体性の世界に根を下ろし、その内側からのみ探り当てることが可能となるであろう普遍的な視座、理念のことであります。

 
大老土井利勝にまつわる故事

 その意味からも、私は牧口会長の『人生地理学』(以下、『牧口常三郎全集第1巻第三文明社。現代表記に改めた)の方法論、アプローチに着目したい。呼称からしてユニークであります。「自然地理」や「人文地理」に比べて、「人生地理」という語感は、はるかに具体性の世界のリアリティー―政治、経済、社会、文化、教育、宗教など人間生活万般にわたる厚みと深さと広がりを含意しております。牧口会長が執筆のモットーとして、吉田松陰の「地を離れて人無く人を離れて事無し、人事を論ぜんと欲せば、先ず地理を審(つまびらか)にせざるべからず」との言葉を掲げている所以であります。

 さらに、最も刮目すべきは、具体性の異名ともいうべき地域性に、徹して軸足を置き、そこを抜きにしていかなる地平も展望も妬けてこないとする「内在的普遍」のアプローチであります。その中に次のような一節があります。

 「広大なる天地の状態は、実に此猫額大の一小地に於て其大要を顕わせり。されば万国地理に現わるる複雑なる大現象の概略は、粗ぼ之を僻陬(へきすう)の一町村に於て説明すること難からず。既に一町村の現象によりて郷土の地理を明にせんか、依て以て万国の地理を了解すること容易なり」と。

 たとえ猫の額ほどの「小地」であっても、その地域性にこだわり、そこに生き、観察し、解明していくならば、そこから一国ひいては全世界の事どもの考察へと広がっていく、とされているのであります。

 話は少々飛びますが、日露戦争の頃のエピソードを一つ紹介したい。

 ある日、ロシア人の捕虜が二人捕らわれてきた。初めてのことで珍しかったため、見物にいこうということになったが、反対する者もいた。そこで中隊長が理由を尋ねたところ、ある兵士がこう答えた。

 「自分は在郷のときは職人であります、軍服を着たからは日本の武士であります、何処のどういう人か知りませぬが、敵ながら武士であるものが運拙く捕虜となって彼方此方と引廻され、見世物にされること、さだめて残念至極でありましょうと察せられ、気の毒で耐(たま)りませんから自分は見学にいって捕虜を辱しめたくありません」(長谷川伸『日本捕虜志』上巻、中央公論社)と。

 ルーマニアブカレスト大学での講演で言及したものですが、この兵士の感受性のベースになっているのは、職人としての生活感覚であります。その健全なる生活感覚、そこに宿るヒューマニティーが、敵である異邦人を、マルセルいうところの「隣人」たらしめている。

 戦争を肯定する訳では毛頭ありませんが、大地に根を下ろした強靭なる人間性の凱歌の証しは、″時″と ″場所″を選びません。

 流刑囚を「罪人」扱いせず、「不幸な人」と呼んだシベリアの民衆の人間愛を、ドストエフスキーは生き生きと描き出していますが、彼らシベリアの民にとっても、流刑囚は、悪人でも忌むべき存在でもなく、あくまで「隣人」なのでした。


人間不在の転倒を乗り越える道

 まず身近な具体的なところから始まり、一歩そしてまた一歩と、四囲を「隣人」たらしめる人間連帯の間断なき構築作業――ここに平和への王道があり、この地道な積み重ねなくして、恒久平和の地平など望みうべくもありません。
 そうした感受性、生活感覚の共有こそ、「内在的普遍」ということの内実なのであります。マルセルいうところの「抽象化の精神」に毒されることのない具体性の世界の実相なのであります。そして、そのような精神性、ヒューマニティーの潤しゆくところ、「抽象化」の病理は駆逐され、「イデオロギー」によって「人間」が、「目的」によって「手段」が、さらには「未来」によって「現在」が......約(つづ)めていえば「抽象的存在」によって「具体的世界」が犠牲にされ、生贄にされるような人間不在の転倒は、決して起こらないにちがいない。

 そこに立ち現れてくるのは、「貨幣」のような抽象的かつ非人称的な存在が、わが物顔に振る舞う社会ではなく、「生命」や「人間」といったバーチャル(仮想的)ではない真実のリアリティーにスポットが当てられる、ヒューマニティー溢れる時代であり、世紀であると、私は確信してやみません。



続いて、この『人道的競争」の理念に基づき、地球的問題群に取り組むための方途について具体的に提案しておきたい。

 世界は今、先に論じた経済危機に加え、地球温暖化やエネルギー問題、また食糧問題や貧困問題が連鎖しながら悪化していく危機に見舞われています。歴史のプリズムを通して見ると、今日の状況は、1929年の世界恐慌の再来をも想起させる衝撃と、1970年代前半にドルショックや石油危機が起こり、さまざまな地球的問題群が次々と顕在化した状況が、一挙に襲いかかっているような様相さえ呈しております。

 振り返れば、1930年代には世界恐慌による経済危機を乗り越えようと、関税引き下げや為替レートの安定についての政策協調が模索されました。しかし、いずれも不調に終わり、他国に配盧せず自国の権益のみを守ろうとする経済政策がさらに危機を深刻化させる、いわゆる"囚人のジレンマ"の状態を招き、世界恐慌の反省が実を結ぶには、第2次世界大戦の惨劇を経ねばなりませんでした。

 一方、1970年代前半には、環境問題や食糧問題に関する国連主催の世界会議が初めて行われ、先進国によるサミット(首脳会議)もスタートしました。これらの動きは、現在にいたる国際協調の端緒となったものの、当時の諸問題が抜本的な解決を見ないまま山積しているように、国益の対立の前に十分に機能してこなかった面は否めません。

 その意味で、今、我々に求められているのは、かつての危機の時代における取り組みをはるかに凌駕する「大胆な構想」と「大胆な挑戦」でありましょう。

 金融危機震源地となったアメリカでは、"チェンジ(変革)"を合言葉に掲げたバラクオバマ氏が大統領に就任しました。オバマ大統領は就任演説で、「世界は変わった。故に、我々も共に変わらなければならない」「いま我々に求められているのは、新しい責任の時代に入ることだ」と呼びかけましたが、その変革への挑戦はアメリカ一国のみならず、世界全体で等しく必要とされるものです。

 そこで私は、現在のグローバルな危機を、「人道的競争」の具現化を通して、人類の新しい未来への"糧"に変えながら、「平和と共生の世紀」を建設するための柱として、次の3つの項目を挙げたい。

 第一は環境問題への取り組みを通しての「行動の共有」であり、第二は地球公共財に関する国際協力を通しての「責任の共有」であり、第三は核兵器廃絶への挑戦を通しての「平和の共有」であります。


誰もが免れない気候変動の影響

 第一の柱については、特に地球温暖化に焦点を当てて論じておきたい。

 地球温暖化は、各地の生態系に深刻な影響を及ぼすだけでなく、気象災害や紛争を招く要因ともなり、貧困や飢餓を拡大させるなど、21世紀のグローバルな危機を象徴する文明論的な課題といえるものです。

 就任以来、このテーマを国連の重点課題に掲げてきた潘基文事務総長が、「長い目で見れば、豊かな人々にも貧しい人々にも例外はなく、気候変動のもたらす危険を免れることのできる人はこの地球上のどこにもいない」と警告するように、誰もが傍観者では済まされない性質を帯びた危機です。

 それはまた、"現在進行中の複合的な危機"であると同時に、甚大な影響が子どもや孫たちの世代にまで及んでしまうという面で"未来をも蝕む危機"にほかなりません。

 残念ながら2008年は、温室効果ガスの削減をめぐる交渉に目立った進展はありませんでした。12月の合意期限までに前向きな議論が進められることが期待されますが、先進国の取り組みの強化はもとより、今後、新興国や途上国の間でも何らかの行動が必要となってくることは論を待ちません。


新興国と途上国含む活動に着手

 では、どのような形で「行動の共有」を図ればよいのか。その突破口はエネルギー政策での国際協力にあると、私は考えます。

 なぜなら、エネルギー問題は新興国や途上国にとっても切実な問題であり、先進国側においても「低炭素・循環型社会」への転換を図る上で避けて通れない課題だからです。

 実際、二酸化炭素など温室効果ガスの発生の6割近くは化石燃料の消費等によるものだけに、効果は大きいといえましょう。

 また現在、オバマ大統領が提唱するグリーン・ニューディール政策ともいうべき雇用創出プランのように、エネルギーや環境分野で重点的に投資を行い、新しい産業や雇用を生み出す状況をつくり、経済危機の打開を目指す政策の実施や検討が、日本や韓国をはじめ各国で広がっており、機運は高まっています。

 2008年の提言で私は、再生可能エネルギーの導入と省エネルギー対策の促進で「低炭素・循環型社会」への移行を図るアプローチに言及し、環境問題への対応を契機に「人道的競争」の時代を開くべきであると訴えました。その萌芽は、すでに現れ始めています。

 一つは、すでに50カ国以上が賛同を表明している「国際再生可能エネルギー機関」の設立で、1月26日にドイツで協定文書の調印式が行われ、新興国や途上国を含めた形での国際協力が始まることになりました。私も7年前に「再生可能エネルギー促進条約」を提案し、こうした体制の構築を呼びかけてきただけに歓迎するものです。

 また省エネルギーの分野でも、2008年12月、G8(主要8力国)に中国、インド、ブラジルなどを加えた国々が閣僚会合を行い、今年中に「国際省エネ協力パートナーシップ」の活動を開始し、事務局を国際エネルギー機関に置くとの共同声明を発表しました。

 まずは、京都議定書の第一約束期間が終了する2012年までに、この二つの新しい活動を軌道に乗せ、国際協力の実績を積み上げながら、「気候変動枠組条約」の取組みを支える両輪としていくことが望まれます。

 その上で私は、将来的な展望として、この2つの分野での活動を引き継ぐ形で、国連に「国際持続可能エネルギー機関」を創設し、エネルギー政策での国際協力を全地球的なレベルに広げていくべきではないかと提案しておきたい。

 技術やノウハウの提供は経済競争の面で不利益を被り資金協力は新たな負担増になるとの懸念が生じるかもしれません。

 しかし、大乗的見地から温暖化防止という共通目標に立って協力し合うことが、牧口初代会長の言う「他の為めにし、他を益しつつ自己も益する」道につながり、最終的には、国益をも担保するであろう「人類益」に直結することを銘記すべきです。

 また、この新しい機関のもう一つの役割として、エネルギー政策に限らず、地方自治体や企業、NGO(非政府組織)も加えた形で、持続可能な地球社会を築くためのグローバルな連帯を強めることが望まれます。

 私が創立した戸田記念国際平和研究所では2008年11月、「気候変動と新しい環境倫理」をテーマに国際会議を行いました。

 そこで焦点となったのも、国家と企業と市民社会が「未来への責任」に立って連帯し、相乗効果を発揮していく重要性であり、なかでもポイントとなるのが、より多くの人々の積極的な関わりでした。

 私どもSGI(創価学会インタナショナル)では、地球憲章委員会と共同制作した「変革の種子――地球憲章と人間の可能性」展を各地で開催してきたほか、他の団体とも連携しながら、各国で植林運動などの自然保護活動に取り組んできました。環境問題への取り組みは、単独で進めるだけでも意義はありますが、ともに手を携え、行動する中で、社会への波動は数倍にも数十倍にも広がっていくはずです。

 この連帯を広げる挑戦に加えて、国連の「持続可能な開発のための教育の10年」が今年で中間点を迎えることを念頭に、民衆自身が教育・広報面での活動や意識啓発を積極的に担いながら、持続可能な地球社会の建設を目指すことが大切になると思います。


"人災"が招いた飢餓人口の増加

 次に第二の柱として、地球公共財に関する国際協力を通して、「責任の共有」を確立するための提案を行っておきたい。

 一つは、「世界食糧銀行」の創設です。

 私は2008年の提言で、人間開発や人間の安全保障の面で不可欠となる要素として「安全な水の確保」を挙げました。

 「食糧の安定的な確保」はそれ以上に、人間の生命と尊厳を守る上で死活的に重要なもので、貧困との闘いの出発点となるものでもあります。

 2006年の秋以降、穀物価格が急騰し始め、多くの国々で同時に食糧危機が起こりました。その結果、新たに4000万人が飢餓状態に置かれ、世界の栄養不足人口は9億6300万人に達したと推定されています。

 留意すべきは、これが天災ではなく"人災"として引き起こされた点です。つまり、サブプライムローン問題の影響で投機マネーが穀物市場に流れ込んだことと、エネルギー需要が増加してバイオ燃料の生産が増えたために食用穀物の生産が落ち込んだことが、価格の急騰を招いた背景にあると言われているのです。

 その再発を防ぐためにも、穀物の一定量を「地球公共財」として位置付けて常時備蓄をし、食糧危機の際には緊急援助用に供出したり、市場に放出して価格の安定化を図るシステムの構築が求められます。

 今から35年前、飢餓で苦しむ人々を尻目に、"食糧戦略"なる言葉が横行していた時代にあって、私は、人間の生命の基である食糧を国家間の政争の具にしてはならないとの思いから、「世界食糧銀行」の構想を世に問いました。

 もちろん自国の食糧の確保は大切ですが、他国の犠牲の上に成り立つ国家エゴであってはならず、目指すべきはグローバルな食糧安全保障の確立であります。

 2008年7月の洞爺湖サミットでも食糧問題が一つの焦点となり、世界の食糧安全保障に関するG8首脳声明が発表されました。
 そこでは、人道目的のために国際的に調整された仮想備蓄システムを構築することの是非を含め、備蓄管理のあり方について検討していくことが初めて盛り込まれました。

 備蓄制度の創設については、洞爺湖サミットの開催前に、世界銀行のロバート・ゼーリック総裁も各国首脳に呼びかけていましたが、今こそ真剣に検討すべき時を迎えているのではないでしょうか。


ソフト・パワーを競い合う挑戦

 二つ目の提案は、貧困の克服や保健衛生の改善をはじめとする「ミレニアム開発目標」達成のために、国際連帯税など革新的資金調達メカニズムの導入を促進することです。

 2002年にメキシコで行われた国連の会議を機に議論が活発化し、すでに保健分野を中心にいくつか制度がスタートしています。代表的なものに、ワクチンで予防可能な疾患による子どもの死亡を減らすための「予防接種のための国際金融ファシリティ」や、HIV/エイズマラリア結核などの感染症治療の医薬品を提供するための「航空券税」があります。

 ここ数年で関心を持つ国も増え、2006年に立ち上げられた「開発資金のための連帯税に関するリーディング・グループ」には50カ国以上が参加するにいたりました。

 現在も、「通貨取引開発税」や「炭素税」をはじめ、さまざまなメカニズムを模索する動きが続いていますが、21世紀のマーシャルプランともいうべき人道基金の一環として、より多くの国々が関わっていくことが望まれます。

 こうした革新的資金調達メカニズムの構築は、各国が良い意味で、アイデアや構想というソフト・パワーを競い合っていく――まさに「人道的競争」と呼ぶにふさわしいテーマにほかならないものです。

 まずは、2011年の第4回「国連後発開発途上国会議」に向けて議論を高め、「ミレニアム開発目標」達成への勢いを加速させていく。そして「ミレニアム開発目標」の達成期限である2015年以降も、世界で最も苦しんでいる人々や社会的弱者を守る取り組みを、"地球社会のセーフティーネット"として網の目のように張り巡らせていくことが重要です。

 国連で2008年、経済発展の面で世界から長らく取り残されてきた58力国の人々を指す「ボトム・ビリオン(最底辺の10億人)」という言葉が一つのキーワードになり、注意が喚起されました。

 貧富の差が拡大し、生まれた国や場所によって人間の「命の格差」や「尊厳の格差」が半ば決定づけられてしまう状態は、"地球社会の歪み"というほかなく、断じて終止符を打たねばなりません。それは、ルソーが原初の社会感情とした「憐憫」を体した人間の尊厳にかけて取り組むべき課題でもあります。

 経済学者のアマルティア・セン博士は、「貧困はたんに所得の低さというよりも、基本的な潜在能力が奪われた状態と見られなければならない」と指摘しましたが、正鵠を射た言葉だと思います。

 「ボトム・ビリオン」と呼ばれる人々にとって、今まさに必要とされるのも、劣悪な状況から自らの足で一歩踏み出すための"国際社会の連帯の証し"としての後押しなのです。

 戦後の混乱から驚異的な復興を遂げた経験を持つ日本は、21世紀の世界で"誰もが真に人間らしく平和に生きられる権利"を「地球公共財」として確保するためのりリーダーシップを積極的に発揮してほしいと念願するものです。


NPT第6条の誠実な履行を

 続いて第三の柱として、核兵器廃絶への挑戦を通して「平和の共有」を図るための枠組みづくりについて提案したいと思います。

 まず核兵器の削減に向けて、世界の核兵器の95%を保有する米ロ両国が、軍縮交渉を直ちに開始すべきだと訴えたい。

 核問題を論じる上で忘れてはならないのは、NPT(核拡散防止条約)が保有国に対し、その地位を永遠に認めたわけではないという点です。

 この点、国際司法裁判所が1996年に核使用に関する勧告的意見を出した際に裁判長を務めたモハメド・ベジャウイ氏が、2008年、誠実な核軍縮交渉を求めた第6条の意義について述べた言葉には千鈞の重みがあります。

 「《誠実さ》こそ国際法の根本をなす原則であり、これがなければ全ての国際法は破綻してしまうだろう」

 「《誠実さ》は、それぞれの加盟国が、個別的に、または加盟国以外の国家も含めた他の国家との協力の下に、核軍縮というNPTの目的に向けて国際社会が少しでも近づけるよう積極的な措置をとることを要求している」

 つまり、NPTへの信頼性は、保有国の誠実な行動があってこそ成り立つもので、その重要性に鑑みれば、軍縮交渉が正当な理由もなく行われていない状態は、《誠実さ》に根本から矛盾することになる、と。

 こうした中、ヘンリー・キッシンジャー博士らアメリカの元政府高官4人が「核兵器のない世界」を求めるアピールを2年連続で発表して以来、保有国を巻き込む形で議論が活発化してきたことが注目されます。

 2008年、アメリカのオバマ大統領は選挙期間中の段階で、「弾道ミサイルの一触即発警戒態勢を解除するためにロシアと協働し、両国の核兵器と核物質の備蓄を劇的に削減する」との立場を表明しました。

 一方のロシアも、メドベージェフ大統領が「START1(第1次戦略兵器削減条約)に代わる核軍縮に関する新たな条約を作ることが重要」と述べるとともに、プーチン首相も「我々は″パンドラの箱″を閉じなければならない」との見解を示しています。

 この機運を逃すことなく、「米ロ首脳会談」を一日も早く開催することを呼びかけたい。そこで、大胆な核軍縮に向けての基本合意を行い、2010年のNPT再検討会議に向けて、両国が誠実に軍縮に臨む姿勢を世界に明確に示すべきだと思うのです。

 具体的には、年末に期限が切れるSTART1の削減規模をはるかに上回る――2000年にロシアがアメリカに提案した、両国の核弾頭を1000発にまで削減する案を視野に入れた――新たな核軍縮条約を米ロ間で締結することが求められましょう。

 このほか、CTBT(包括的核実験禁止条約)へのアメリカの批准や、カットオフ(兵器用核分裂性物質生産禁止)条約の交渉など、長年の懸案に対しても即座に行動を開始すべきであります。

 その上で両国の合意を土台に、他の保有国の首脳にも参加を呼びかけ、国連事務総長を交えて「核軍縮のための5カ国首脳会議」を継続的に行い、NPT第6条の履行を具体化させるためのロードマップ(行程表)の作成に着手すべきではないでしょうか。

 こうした保有国の軍縮努力があってこそ、NPTの枠外にある国々に対しても、核兵器能力の凍結や核軍縮へ向けての誓約を求めることができると、私は訴えたいのです。

原水爆禁止宣言が断罪したもの

 この核軍縮と並行して対応が迫られるのが、NWC(核兵器禁止条約)による「核兵器の非合法化」の枠組みづくりです。

 NWCは、核兵器の開発から、実験、生産、貯蔵、移譲、使用、および使用の威嚇にいたるまでのすべてを禁止するものです。

 そのモデル案は、すでにNGOの主導で起草され、1997年にコスタリカが国連に提出した後、2007年に改訂版が再び国連文書となる中、2008年、国連の潘事務総長も条約の交渉検討を各国に呼びかけました。

 保有国が一向に改めようとしない核抑止政策が、新たに核保有を求める国々の正当化の論拠ともなってきたことを踏まえ、どの国であろうと一切の例外を許さず、核兵器を全面的に禁止する国際規範を打ち立てる必要があります。

 私の師である創価学会戸田城聖第2代会長が逝去の前年(1957年9月)に「原水爆禁止宣言」を発表し、"いずこの国であろうと、それを使用したものを絶対に許してはならない"と断罪したのも、核保有の奥底にひそむ国家エゴが、人類の未来にぬぐいがたい脅威をもたらす元凶となることを見据えてのものでありました。

 NWCに対し、保有国の参加を得ることは難しく、それが確保されない限り、有名無実になるとの懸念の声もあります。

 しかし、光明がまったくないわけではありません。インドやイギリスなど一部の国の間では、さまざまな条件や留保を付けながらも核時代を終焉させる必要性を認める見解を示すようになっているからです。

 また、未発効であるCTBTが、非加盟国にも核爆発実験のモラトリアム(一時停止)を宣言する状況をもたらしているように、NWCが保有国にも何らかの形で自己抑制を迫る規範としての重みを持つことが期待されます。

 保有国が直ちに交渉に踏み出せないにしても、その前段階として既存の非核地帯条約の議定書への批准を完遂させるとともに、2008年の提言で呼びかけた「北極非核地帯条約」の制定に前向きに取り組むなど、地域的限定が伴うにせよ、「核兵器の非合法化」の流れに従う《誠実さ》を示すべきではないでしょうか。

 実際、「核兵器のない世界」を望む声は高まっており、保有国を含む21力国の国民を対象に2008年行われた世論調査でも、平均で76%の人々が核兵器を禁止する国際規範の必要性を認める結果が出ました。

 こうした声をNWCの実現を求めるグローバルな連帯の形成につなげながら、市民社会の後押しで新たな軍縮条約の歴史を開いた「対人地雷全面禁止条約」や「クラスター爆弾禁止条約」に続く形で、"核兵器禁止の包囲網"を築き上げることが必要です。

 2008年、「クラスター爆弾禁止条約」が異例のスピードで成立をみたのも、非人道的な兵器を許さないとの国際世論が高まったからでした。その最たる存在である核兵器についても、"人道的精神が軍事の論理に打ち勝つ"道を開くことが欠かせないのです。

 2008年12月には、力ーター元大統領やゴルバチョフ元大統領らが名を連ねる核廃絶運動「グローバル・ゼロ」の創設会議がパリで行われました。この運動の特徴も、「核兵器のない世界」の実現は国際世論の広範な支持なしには不可能との認識に立脚している点にあり、2010年1月に各国の指導者らと市民社会の代表が参加しての「世界サミット」の開催を呼びかけています。

 こうした世界サミットの開催は、私も年来主張してきたところであり、実りある成果が得られることを期待するものです。そして、2010年に行われるこの世界サミットと、NPT再検討会議での議論をステップボードに、NWCの交渉を開始すべきだと訴えたい。


人間の安全保障と相いれない絶対悪

 かつて20世紀を代表する歴史家のアーノルド・トインビー博士と対談した折、核問題の解決には民衆の強い働きかけと、核保有を拒否する「自ら課した拒否権」を世界全体で確立することが重要述べておられたことが忘れられません。

 NWCは、その「自ら課した拒否権」を基礎とすべきものです。そして、核兵器は人類の生存権を脅かす"絶対悪"であり、「国家の安全保障」のみならず、地球上のすべての人々の平和と尊厳を追求する「人間の安全保障」とは決して相いれないものであるとの信念を、条約の根幹に据えるべきものと考えます。

 その地平が拓けてこそ、"他者の恐怖と不幸の上に自らの平和と安全を求めない"との人類が目指すべきグローバルな「平和の共有」の曙光は輝き始めると確信してやみません。

 焦点となっている北朝鮮やイランの核開発問題も、脅威と不信の増幅に終止符を打つためには、地域全体の緊張緩和と信頼醸成を粘り強く進め、平和を共有する空間を広げる努力が欠かせないと考えます。

 私どもSGIは、戸田第2代会長の「原水爆禁止宣言」を原点に、より多くの人々が核兵器の問題を自らの問題としてとらえることができるように働きかける運動を続けてきました。

 宣言発表50周年を迎えた2007年からは、「核兵器廃絶へ向けての世界の民衆の行動の10年」の具体的行動として「核兵器廃絶への挑戦と人間精神の変革」展を開催、今年からは、創価学会の女性平和委員会が取材・編集した女性による戦争証言を抜粋し5カ国語に翻訳したDVD「平和への願いこめて――ヒロシマナガサキ被爆者証言編」の上映会も各地で行う予定となっています。

 また、NWCの実現を求めるIPPNW(核戦争防止国際医師会議)が進める「ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)」をはじめ、他のNGOと協力を深めながら、特に女性や次代を担う青年や学生の間での連帯を広げて、国際世論を高めていきたい。

 そして、戸田第2代会長の生誕110周年にあたる2010年を目指し、「原水爆禁止宣言」の規範化ともなるNWCの交渉開始を、力強く呼びかけていく決意であります。


"人類の議会を守り支える基盤

 結びに、これまで論じてきた地球的問題群に立ち向かう人類共闘の結集軸となるべき、国連の強化について提案しておきたい。

 1度にわたる世界大戦の反省に基づいて創設された国連が、これまでどのように山積する難問に取り組んできたのか――。

 その60年余りの歴史に、さまざまな角度から光を当てて、実像を浮かび上がらせた労作に、歴史学者ポール・ケネディ氏の『人類の議会』があります。

 私が特に感銘したのは、ケネディ氏が国連の歴史を単に国際政治史の一側面としてではなく、「国際機関を通して相互の尊厳と繁栄と寛容の未来を築くという共通の目的のために、人類が集まり模索してきた活動の物語」として描き出している点です。

 つまり、それは国連を軸にした人類史にほかならず、私なりに言い換えれば、国連憲章の理念の実現を求めての「人道的競争」をめぐる険難と挑戦の歴史だったともいえるでしょう。

 果たして国連は、今後も憲章に託された使命を全うしていくことができるのか。それは、「人類共通の善と長期的利益のために、自らの不安や利己主義を克服できるかどうかである。21世紀の歴史の大半は、その課題にわれわれ全員がどう対処するかにかかっている」と、ケネディ氏は強調しています。

 その問題意識は、現在、対談を進めているアンワルル・チョウドリ前国連事務次長と私が共有するものでもありました。

 この点から国連の未来を展望した時、まず必要と思われるのは、将来にわたって国連を支え、力を与え続ける源泉となる「市民社会との強固なパートナーシップ」の構築です。

 その基盤づくりの一環として、国連に「市民社会担当の事務次長」のポストを設けることを呼びかけたい。同様の提案は、カルドーゾ元ブラジル大統領を委員長とする「国連と市民社会の関係に関する有識者パネル」が2004年に発表した報告書でも提起されていたものですが、検討に値すると思われます。

 この事務次長を、NGOの地位向上とパートナーシップの促進のために専門に活動する常設職とし、平和と安全保障、経済・社会問題、開発協力、人道問題、人権といった国連の主要テーマに関する討議の場に加わり、市民社会の意見の反映を求めていくことなども考えられましょう。

 先の有識者パネルの報告書でも、「市民社会は国連にとって決定的に重要で、それを連動させていくことは必要なことであり、選択肢ではない」と強調されていましたが、NGOをいつまでもオブザーバー的な存在にとどめるのではなく、国連を支える"かけがえのないパートナー"として位置付けることこそ、21世紀の国連の生命線であると訴えたい。

 こうした改革を一里塚として、国連憲章が冒頭に掲げる"われら人民"との言葉を修辞的なものに終わらせることなく、「民衆の顔をした国連」の実現に向けての潮流を高めていくことが望まれます。


未来志向に立つ行動戦略が重要

 もう一つの提案として述べておきたいのは、国連の進むべき方向性を打ち出し、求心力を高めていく組織として、「グローバル・ビジョン局」を国連に設置するプランです。

 かつて経済学者のケネス・ホールディング博士は、私が1991年にハーバード大学でソフト・パワーについて論じた講演に触れて、これからの時代は「正統性を持った統合力のあるパワー」が重要となると語っておられたことがあります。

 その博士が、"国民国家は過去の栄光にその正統性を見出すが、国連は人類の未来の展望にその正統性を求める"との指摘をしておりますが、まさに至言といえましょう。

 これまで国連は、政府間組織という性格もあり、起こった問題に事後的に対処する傾向が強かったように思われます。チョウドリ氏も、国連には日常業務を取り扱う部署や諸活動を管理する機能はあるが、将来何が人類の課題となるのかを見定めて方向性を示す専門の組織が存在しないことへの懸念を表明されていました。

 私もまったく同感であり、常に未来志向に立ってビジョンを構築し、50年先、100年先を見据えて行動戦略を打ち立てるシンクタンク的機能をもった組織が、国連には不可欠であると考えます。

 また、その運営にあたっては、女性の視点や青年たちの声を反映させることに留意し、青年や子どもたちのエンパワーメント(能力開花)を常に視野に入れた討議を行うべきであると、強調しておきたい。

 国連創設50周年の翌年(1996年)に創立した戸田記念国際平和研究所では、国連の強化についても研究を重ねてきました。今後も、国連の重要なレゾンデートル(存在理由)である「人類の未来の展望」の面で、国連をさらに力強くサポートする研究機関としての活動を展開していきたい。

 また、私が創立したボストン21世紀センターや東洋哲学研究所でも、国連が取り組む地球的問題群の解決のために、これまで積極的に進めてきた「文明間対話」や「宗教間対話」を継続させながら、人類の英知を結集する挑戦を続けていきたいと思います。


相互理解の促進が焦眉の課題

 どのような困難な課題であろうとも、互いの立場や差異を超えて、同じ人間として率直に話し合う「人間主義」に根ざした対話の道を開くことが、一切の出発点となります。

 国連自体もそうでした。先のケネディ氏によると、国連は創設の頃から"一種の三脚椅子"にたとえられていたといいます。第一の脚は国際安全保障を確保するための措置、第二の脚は世界経済の改善、第三の脚は諸国民間の理解の向上にある、と。その上で氏は、「他の2つの脚がどれだけ強くとも、諸国民間の政治的、文化的理解を向上させる方法を打ち出さなければ、この体制は失敗し、崩壊するだろう」と強調しています。

 相互理解の促進は、現在においても焦眉の課題で、国連は本年を「国際和解年」とし、2010年を「文化の和解のための国際年」に定めました。これは、真実の解明と正義の実現という目的のために、寛容と対話が不可欠の手段であることを、国連が注視している証左にほかなりません。

 世界では、2008年末から武力衝突の激化で多くの犠牲者が出たガザ地区をはじめ、スーダンコンゴ民主共和国の情勢など、容易ならざる問題が山積しています。

 加えて、難民と国内避難民の増大や、各地で広がるテロの脅威にどう対処するべきかという課題にも直面しています。

 これらの難問にあたるには、国連のリーダーシップのみならず、それを支える各国の協力と粘り強い外交努力が欠かせません。

 そして何よりも、暴力と憎悪の連鎖をともに断ち切り、「平和の文化」という共存への土塁を積み上げながら、人間の尊厳に基づく「平和への権利」を21世紀の世界を守る石垣として堅固なものにしていく取り組みが求められます。

 この時代変革のために、誰もが始めることができ、かつ、無限の可能性を秘めた挑戦が「対話」です。

 私はその力を信じ、冷戦対立が深まりをみせた74年から75年にかけて、中国とソ連アメリカを相次いで訪問し、首脳との直接対話に臨み、緊張緩和の道を民間次元で開いていったのをはじめ、分断が進む世界に友好と信頼の橋を懸ける努力を重ねてきました。


トインビー博士が注視したもの

 そうした私の対話の挑戦に期待を寄せてくださっていたのが、歴史家のトインビー博士でした。

 100年、1000年の単位で人類史の興亡を俯瞰し、「挑戦と応戦」という歴史観を導き出した博士が、新たな歴史を開く原動力として注目していたのも、「人間性」という共通の大地に根ざした対話の持つ可能性だったのです。

 博士は半世紀前に日本で行った講演で、人間は歴史の中でどこまで自由でありうるかとのテーマに論及したことがありました。

 そこで博士は、人間の歴史には何らかの法則性や反復性といったパターンを見いだすことができ、自らもその概念を800年もの周期をもつ文明興亡の循環にまで広げてきたが、その半面、「まったくパターンのない人間的事象がたしかにあるものと本当に信じている」と述べ、こう結論されたのです。

 「人間的事象のうちでパターンが事実存在しないと思われるのは、人格と人格のあいだの邂逅接触の分野である。この邂逅接触のなかから、真に新らしい創造といったなにものかが発生するのだと思う」と。

 冒頭で論じてきたように、特定のイデオロギーや民族や宗教といった枠にとらわれて「抽象化の精神」の罠にからめとられてしまった時、人間は"時流"という歴史の浅瀬で立ち往生し、そこから一歩も前に進めなくなってしまうのが常であります。

 そうではなく、互いの表面に無造作に付けられたラベルを取り払って、一個の人格として向き合い、対話という精神の丁々発止を重ねていってこそ、トインビー博士の言う窮極において歴史を突き動かす「水底のゆるやかな動き」を、ともに生み出すことができる――。

 私はその信念で、人間を隔てる一切の垣根を乗り越え、ある時は敵対し合う国を往復し、ある時は対話の回路のない国々や地域を結ぶ一本の線となりながら、世界のリーダーや識者の方々との対話を進めてきました。その結晶ともいうべき対談集は50点を超え、現在準備中のものを含めると約70点に及びます。


人間触発の大地を広げゆく誇り

 振り返れば、創価学会は1930年という危機の時代の最中に誕生し、SGIもまた1975年という危機の時代に発足しました。
 以来、私どもは、牧口初代会長の「人道的競争」のビジョンと、「地球上から"悲惨"の二字をなくしたい」との戸田第2代会長の熱願を旗印に、国連支援に一貫して取り組むとともに、一人一人が良き市民として、草の根レベルで「平和の文化」の裾野を広げる対話の実践を地道に続けてきました。

 そして今、戸田第2代会長が私との語らいの中で、「やがて創価学会は壮大なる『人間』触発の大地となる」と展望されていた通り、人間主義で結ばれた民衆の善なる連帯は、世界192カ国・地域に大きく広がるまでになりました。

 その誇りと使命を胸に、2010年の学会創立80周年とSGI発足35周年を目指し、「対話」の力でグローバルな民衆の連帯を築きながら、「平和と共生の世紀」ヘの道をどこまでも開いていきたいと思います。

 多くの識者が先生を知るきっかけになっているのは、『二十一世紀への対話』(トインビー対談)か平和提言という方が大半であり、識者向けの難しい文章ではあるものの本来1番最も学ばなければならないテキストではないでしょうか。。しかし現実には、ほとんど研鑽されている人はおらず、会合で平和提言に触れる人にもほとんどいないように思います。


政治家のスピーチと比較して思うことがございます。それは、先生は、世界が賛同できる提言をされていることと、内容は具体的で、平和願望を抽象的に論じていることです。


 誰も研鑽していなくても、自分から研鑽して参りたい。人間の抽象化から起こる、人間同士が疎外しあう。その連鎖を断ち切るためには、(国際)政治・経済からどうしていくべきかが書かれております。


 2005年のSGI提言は、マルティン・ブーバー著「我と汝の対話」から、人間の疎外の話を引用して始まりました。この年のセンター入試国語Ⅰ・Ⅱでこの年のSGI提言で引かれていた文と同じ文が引かれていたので、読んだことがとても懐かしく思います(入試の問題で使われた論説文の引用にマルティン・ブーバー著「我と汝の対話」がありました)


 今年のSGI提言の研鑽は、まだ続きます。研鑽が足りないことを痛感しているからです。また自分の言葉で、掛けないことを反省致します。



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