乖離

最近気づいたこと。
あるコミュニティでは、筋道立てて論理的に物事を考えているように見られ、ある別のコミュニティでは、正反対に見られる。この3日間、葛藤していた。


今、考えられることは、掲示板でロジックを追って書き込みをする機会が多々あり、またブログという形で、頭を整理して書く場面が飛躍的に増えた。そして、それは、確実にプラスになっている。改まった場面で話す時、文章では、反映されている。しかし、それ以外の場では、何ら反映されていない。最も、顕著な例としては、話を極度に短くしようとする際に発生する。多くは、相手がどこまで理解できているのか見えていないために起こる。1から10言えば、当然長過ぎる。そこで、1回取り上げたことは、あえて細かいところは、極力省くと、実は覚えていないということは、往々にしてある。ここまで読めば、答えがわかるでしょう。短くしようとする余り、逆にかなり長くなっていることに。会話の流れを読むのは苦手、表情・仕草で察することが苦手な方は、起こしがちなこと。これを、毎夜起こす。文章の場合は、残るために、流れは読みやすい。修正しても、形跡に気づく場合もある。私より、筋道立てて論理的に物事を考えている人間は、ごまんと存在している。そして、相手にしなくてはいけないのは、そうした方々ばかりである。私は、しゃべり好きにも関わらず、ぼーっと思いふけったり、繊細にも関わらず、がんこであり、無神経であり、こだわることには完璧でありながら、それ以外は、正反対。筋道立てて落ち着いて書こうとする理由の一つは、感傷に陥り、短絡的に暴走するのを抑えるため。文字通り、乖離の塊である。


これからは、こうしたことも、より具体的に祈り、行動する中で、脱却を。今日は、短所・長所について、リフレイミングを改めて行う予定。



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