Bartok Mikrocosmos

バルトークの集大成とも言われる、ピアノのエチュード。前半も一部聴いたが、全編ポリフォニーに覆われている。そんなところがいい。
その表現主義的な耽美さや腐敗臭、ストラヴィンスキーポリリズム、オスティナートやドビュッシーラヴェルの色彩感を、バルトークならではの形に昇華していることが感じられる。またショスタコーヴィチスケルツォに負けじと劣らず諧謔的。

バルトーク自身の自作自演は、リスト直系のピアニストとして、自作自演の点から、歴史価値は高いと思う。

私自身は、調性とポリを含めたモード、ポリハーモニー、無調も、それぞれ好きなところがあるので、それらを行き来するスタイルは非常に好きだ。佐村河内守氏の作品で、調性と非調性の行き来が多いのは、バルトークが好きであった影響があるのではないかと思えてくる。自伝には、バルトークピアノ曲を好んで演奏していた。バルトークの中心軸システム自体、平均律嫌いの純正律主義者でも好きだった節がある。例えば故・玉木宏樹氏がそう。

私たちの芸術音楽にも、民俗音楽に根を下ろす権利があるのではないでしょうか? 芸術における主題の発明ということを、かくも重要なことと考える考え方というものは、実は十九世紀に流行しだしたもので、それはすべてにおいて個別性を追求しなければならないという、現実にはありえない考え方に過ぎません。(46頁)

それぞれに性質の異なった音楽相互の接触は、ただ単に曲の異種交配をもたらしただけではなく、それにもましていっそう重要なことですが、新しい音楽様式の誕生を促進しました。もちろん、同時に、それまでの古い様式も生き続け、こうして、それらが音楽の豊かな富をもたらしたのです。(298頁)

岩城肇 編訳「バルトーク音楽論集」【お茶の水書房

そしてその主題の発明にとらわれ過ぎたことが、戦後の前衛音楽の悲劇ではないかと思う。表現主義、十二音技法まで触れながら、過去の遺産をベースに再構築する姿勢は、戦後だと、ポーランド楽派の面々が近いかもしれない。

新しい様式、古い様式が混在している時代は、音楽史的に見ても非常に面白い、例えば1901年から、ナチスの圧力が入る前のヴィーンや、ポップスだとフュージョンAORからニューウェーヴが全盛になる時代がそれにあたるかもしれない。ともに共通して言えることは、歴史的に見ても稀に見る音楽バブルであること。