フランクル『夜と霧』を一部読む他

すべては読んでいない。

苦痛/生きる意味を問う/苦しむことはなにかをなしとげること/なにかが待つ/時機にかなった言葉/医師、魂を教導する/収容所監視者の心理
と言った辺りしか読んでいない。

どんな状況にあっても、イエスと言い切る。生きる意味は、自分で作ることの大切さを教えててくれる。
これは、「風立ちぬ」のメッセージにも通じるように思えてくる。買うかどうか真剣に悩んでいる。

人ととりわけ身内と何を共有するべきか迷っている。それがクリアできた時、共に巣立ちの時を迎えるかもしれない、
今は、遠い。あまりにも遠い。
ともに共有したい事柄は噛みあっていない。
ともに拒絶していることもまた確か。
私のコミュニケーションの能力の低さが一番わかる事柄なのかもしれない。
だから、くだらないしている時は、形だけ。真面目な話に移行すれば、ケンカになる。
身内からすれば、私が悪いことは言うまでもない。こちらもいいたいことがないわけではない。
しかし、それは、こちらが言っても理解されないという前提で、自然と受け止めらえるようになっていこう。


私自身は、変わり者の典型と言われる症状を、医者からいわれたこともある。
例の変わった音の感じ方、連動してコミュニケーションの癖であったり、瞬間湯沸かし器なところ、不注意なところ、ワーキング・メモリーの小ささ等。
そして、それはどうでもいい、そう思えてくる。
もちろん、そう言われても何も言えないところもある。
そうした自分を受け入れ、アサ―ティヴになっていく過程で、礼儀も、自然と吸収できるようになっていけるはずだ。

これは、何故、ご本尊様の前で、勤行・唱題ができないのかの答えに繋がっている、そう確信することもできた。

あえて無言でいることも大切に思えてくる。それが、お互いに共有したくない事柄であれば。
その上で、耳を澄ませて、共有したい思っていることを受け止められる包容力も必要だ。
私自身、周りが呆れるくらいのさびしがり屋ではあるが、理解されないことは、自ら受け入れ、最高のバラエティーだと思って笑っていこうと思う。
そのためにも、唱題を少しずつ、できる様になっていければいい。
これは、社会から一度弾かれた者たちが、各々の闇を乗り越えて、再び戻るストーリー。