ブログのあり方、再考 2の前に

ブログのあり方、再考 1

この続きを書こうと思っていた。
しかし、その翌日より、仕事で予想していなかった精神的疲れと向き合うこととなり、10.3 27歳の誕生日には触れなかった。コメントを下さった方々、ありがとうございました。
今日、ようやく落ち着いてきて、返信を3件終えたが、記事を書く体力はほとんどない。使い切ったところである。

今日は、小雨に映える、しんみりした曲を送ろうと思う。


ドイツ・ロマン派の末尾を飾る1曲。鬱症状が出ている人にはスルーをお願いしたい曲なのだけど。
私は、3.11の頃にヘビーローテーションしていた。冒頭から、ひたすら哀愁と枯淡である。
個人的には、13分6秒からの第2楽章のトリオで奏でられる、変幻自在に鳴り響くクラリネットが儚くも、一瞬の光がさして美しい。モーツァルトメシアンとも、異なる豊饒なクラリネットが聴ける。秋、それも時雨の時、晩秋、肌寒い秋雨によく似合う。雨と紅葉風景の時に聴いたら、メランコリックになることうけおい、である。そして17分47秒からの第3楽章。この曲が生まれたのは、第1次世界大戦のさなか、1915年。戦争、その後の破滅への哀歌のようにも響く。ここで、奏でられるフレーズは、ソナタ形式で組み立てられた第1楽章の変形。鎮痛、沈痛、ひたすら沈痛。3.11の頃、廃墟になった被災地の風景と、福島第一原発の風景を見ながら、この曲が頭の中で再生されていた。個人的に、ブラームスクラリネット五重奏曲よりも好きだけれど、曲が重いので、あまり万人に勧められない。
室内交響曲だと、シェーンベルク 室内交響曲第1番にも近いスタイルだと思う。


この曲も、従来和声からは、不協和音を完全に開放しないまでも、3度重ねに通常するところを4度重ねにしたり、ひたすら転調したり、逸脱しているけれど、11分21秒からのクラリネット・ストリングスのメロディの歌いぶりは、素晴らしい。5分56秒からの毒づいたスケルツォも素晴らしい。この極めてポリフォニックな、アダージョスケルツォを包含したソナタ形式というプロットも素晴らしい。グレン・グールドが絶賛する理由も分かる気がする。表現主義も、激闘、苦悩の表現としてはありだと思う。それも新ヴィーン楽派、ポーランド楽派がそうしたように、それは、パッションの爆発、発露でなくてはならないと思うし、またそれ一辺倒になるのもおかしいという考えは変わらない。

書きたいことは、決まっているのだけれど、今日はここまで。