Mahler Symphonie NR.8 Es-dur

この曲の主調はEs-dur、英語でEflatMajor、日本語で変ホ長調。フラットが3つつくため、古来三位一体を表すとされ、ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」以降英雄の調として定着した。モーツァルト魔笛」、ピアノと管楽器のための五重奏曲のように、優雅な調べにもとても合う。クラリネットに代表される多くの木管楽器とホルンにとって、運指がしやすく、鳴り響きが良い調でもある。
この曲を作曲したグスタフ・マーラーは、指揮者のウィレム・メンゲルベルクに宛てた手紙で「私はちょうど、第8番を完成させたところです。これはこれまでの私の作品の中で最大のものであり、内容も形式も独特なので、言葉で表現することができません。大宇宙が響き始める様子を想像してください。それは、もはや人間の声ではなく、運行する惑星であり、太陽です」と述べております。また、「これまでの私の交響曲は、すべてこの曲の序曲に過ぎなかった。これまでの作品には、いずれも主観的な悲劇を扱ってきたが、この交響曲は、偉大な歓喜と栄光を讃えているものです」とも書いている。マーラーが、初演後も何度もオーケストレーションを変える癖があったため、初演はすれども完成といういう意識はなかったことと、生前最もお気に入りだったことが、亡くなる前のエピソードを知る中で知った。交響曲第10番のフィナーレで奏でられる調べは、世界で最も美しい音楽の一つだと今でも思う。声なし且つコンパクトにはなるのだけど、マーラー交響曲第10番よりも、シェーンベルク室内交響曲第1番、シュレーカー室内交響曲コルンゴルト交響曲嬰へ調を後期ロマン派スタイルの交響曲の終着駅に思えてくる。マーラー交響曲第10番のその先に、ショスタコーヴィチプロコフィエフシベリウス、アラン・ペッテションそして佐村河内守作品を見てしまうので、私にはこれ以上思い入れが起きないのだ。ゆえに、10番でみせた閃きに敬意を表しながら、私は、8番がマーラーでは1番好きだ。8番が無ければ、それ以降の飛翔もなかったと言えるし、初めて聴いた時は、冒頭と神秘の合唱に圧倒された記憶がある。



第1部は、バッハの声楽曲にソナタ形式を組み入れた、壮大でエネルギッシュな作品。途中奏でられるメロディーは、ヴァーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に似ている。そのポリフォニックな展開も。
その冒頭は、のだめカンタービレでも、シュトレーゼマンが指揮したディスクを聴くという形でながれている。
展開部はまるまる、涼宮ハルヒの憂鬱 第13話 閉鎖空間で、神人と激突するシーンにて流れている。演奏は、サイモン・ラトル指揮バーミンガム市響のライブ音源であることが判明している。

まず神人があらわれたときにかかったそれは神々からの聖なる光を請い求める
「Accende lumen sensibus(光もて五感を高め)」となります。

この部分はこの交響曲前半の第一部において究極的に劇的な音楽の展開をみせる場所で、ここにきて初めて児童合唱も投入されます。そしてここでのモティーフ(動機)は第二部冒頭などにも受け継がれていきます。(自分はこのアニメに第二期があると推測しているのですが、その理由はじつはこういうところにあるのです)

その後「愛を心に注ぎたまえ」とか「(ただちに平安を与えたまえ」という部分があった後、キョンの発言に当惑するハルヒと、暴れる神人のカットのところに、「praevio」という歌詞が各1回かぶってくるシーンがあります。この「praevio」という意味が将来に対する希望なのか警告なのか、そのへんがラテン語音痴の自分には真意がわからないのでその意図がいまひとつ読みきれないものの、とてもこのシーンは印象深いものがあります。これはこの話しのひとの核となる部分をあらわしいるのかもしれません。

で最後に二人が神人の前で接吻するところで「来たれ、創造主なる聖霊よ」
と高らかに歌われそして「夢?」からさめるシーンへとなります。

音楽が使用されているのはここまでですがその後じつは「天のよろこびを贈り給え」や「われらをすべての悪より逃れしめよ」となっていくのですが、このあたりの歌詞はその後のストーリーと重ねていくと興味深いものがあります。

(中略)

この作品が放送された年が、じつはマーラーがこの交響曲第8番の作曲を開始してちょうど百年目にあたっていたことと、戻ってきたキョンが、ハルヒとの接吻の嫌悪感から「フロイト先生も爆笑だっぜ」といったのが、じつはマーラー自身がこの交響曲第8番を初演する前にフロイトの治療を受けて精神の不安定から立ち直り、無事その初演の指揮をミュンヘンで執ることができたというエピソードからきたことにも、かなり感心させられたものでした。

涼宮ハルヒとクラシック

しかし、個人的には、仰々し過ぎる。この曲の特質でもある誇妄壮大が、出過ぎているように思えてくる。また、第2部が、ファウストから歌詞が採られていることもあり、「ハルヒ」=「グレートヒェン」という解釈をする人もいたことに驚いた。
なお、その映像は、youtube,dailymotion,Anitube等徘徊していれば、見つかるので見てみて、気に入ったら、DVDを借りてみてほしい。私は、どうしても好きになれなかった。


第2部は、ゲーテファウスト」のラストから歌詞がとられている。ドイツ語がもつ、母音が子音にサンドイッチされることで生まれる、硬さ、重厚長大さ、哲学、そのすべてを堪能できる。劇が歌になっていることもあり、オペラの一面を持つ。主要主題を音色を変えて変奏する様は、後にシェーンベルクヴェーベルンによって、音色旋律として発展した。また、ヴァーグナーのライトモティーフをものにしていたことがよく分かる。そしてそれこそが、この第2部の聴きどころであり、短くても50分台、長いと70分台になる演奏箇所なので、退屈にならないか、巨大編成も相まって、指揮者の実力が試されるところでもある。サイモン・ラトルは、ミスしなければ、成功であると言わしめている。
個人的には、心が沈んでいた時に聴いたピコ・アダージョが忘れられない。
バス、バリトン各ソロが忘れられない。その音世界は、ヴァーグナートリスタンとイゾルデ」、「パルジファル」に通づる。
第1部の主要主題と、最初のバリトン・ソロが歌うメロディーが、メロディーの中核をなしている。歌詞で核を成しているのが、『絶えず、うまざる努力する者を、我らは、救うことができます。』の辺り。途中、マーラー交響曲第5番アダージェットのエコーが聴こえてくる。また、
地獄から昇天へ。地獄から仏界へ。
ファウストは、死ぬ前に皆と苦楽をともに分かち合い、生きようとしたがゆえに、救われた。ここで、表現されているのは、紛れもない歓喜と栄光である。宇宙の鳴動を感じさせる躍動感とバイブレーションである。

マーラーは最終楽章を「エロスの誕生」として構想していた。そこにゲーテの『ファウスト』を採用したことについて、マーラーは1910年6月にアルマに宛てた手紙で「すべての愛は生産であり創造であって、肉体的な生産も精神的な創造も、その源にはエロスの存在がある」と書き、『ファウスト』の最終場面でこのことが象徴的に歌われているとしている。ここで、クリムトベートーヴェン交響曲第9番「合唱」にインスピレーションされてできた「ベートーヴェン・フリーズ」顔負けの換骨奪胎ぶりである。着想は、ゲーテが知れば憤慨するかもしれない。その一方でこの曲が持つアポロ的なところは、賞賛するのではないだろうかと、個人的に思っている。
マーラーがアルマに贈ったラブ・レターとして捉えると、マーラー=ファウスト、アルマ=グレートヒェンと捉えることもできると思う。この点は、非常に興味深い。この曲は、アルマに実際に献呈されている。


演奏は、個人的には、インテンポ基調にスペクタクルな演奏をしたショルティ、自然体なクーべリックが好き。バーンスタインが得意としたアゴーギクをつけた演奏としては、ティルソン・トーマスがとてもいい。バーンスタインも、映像で見るなら最高だ。ラトルもいい。小澤征爾指揮ボストン交響楽団演奏、マゼールがあまり好みではなかった。

第1ソプラノ(罪深き女)は、バーンスタイン指揮ヴィーンフィルザルツブルクライブで熱演したマーガレット・プライス、テノール(マリア崇拝の騎士)は、ショルティ指揮で組んだルネ・コロ、法悦の教父(バリトン)は、クーべリック指揮で組んだディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ、瞑想する教父(バス)は、バーンスタイン指揮ヴィーンフィルザルツブルクライブで熱演したホセ・ファン・ダム、第2ソプラノ(かつてグレートヒェンと呼ばれし懺悔する女)は、ショルティ指揮で組んだルチア・ポップが特に好きだ。ソリストショルティ、クーべリック、バーンスタイン指揮ヴィーンフィルザルツブルクライブ、ティルソン・トーマスの順で好きだ。

音質は、ティルソン・トーマス、ショルティが双璧。ショルティの方がオルガンが、聴き取りやすい。それは、ヨーロッパ最大級のパイプオルガンを備えるザンクト・フローリアン修道院教会で別録りされている影響が大きい。木管は、この2人の指揮者それぞれ違うところで、聴き取りやすいところがある。

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