再び炎上の兆し

わたしは、かつてある炎上に首を突っ込んだことがキッカケで、同志が顔を出すBBSに顔を出し、後に退転した当時に言葉づかいは嫌いであったが尊敬していたある人物の提案によってこのブログを立ち上げた。
最初と去年が、炎上で心身共に消耗した。陰に陽に相談に応じて下さった方には、深く感謝している。

年末限定で、足跡を残していった大野節さん。
最後に、ある方へ述べた言葉。
怒りをコントロールできないと、またすぐに包囲網ができてしまうよ。堪忍袋が切れそうだという主旨だったと記憶する。

その前後の動向を見て垣間見えるもの。
ロジックと行動のズレと言えばいいだろうか。
人間不快に感じることは多々ある。そして、それは、適切に表して、開放することが求められる。そうしないと、コルチゾールやアドレナリン類が、無尽蔵に増え、心身が不調をきたすからである。
しかし、受け手、発信者、共に非がある故に起きてしまう可能性もあるが、怒りをぶつけるだけと言った事態は避けていく必要がある。
受け止められなかった分は、エントロピーの増大の如く、最終的に双方に、負の因をもたらし、悪循環を招く可能性があるからだ。

同じ言葉でも、人によって理解度は異なる。当然、一人一人の辞書も異なる。それで決裂が起こることも少なくない。また、一般的に文章だけだと、非言語的領域がごっそり抜けるため、炎上しやすいといった意見もあるが、私のように文章の読解は人よりできても、非言語的領域が殆ど理解できないゆえに、電話や対面の方が、意志疎通を図ることが難しい場合もある。

ネットの世界で、発信する人の多くは、隠れ評論家が多い。そして自己顕示欲が潜在的に強い方も多い。私も、そういう人間の一人に違いない。聞き入れられないことに対して、辛気臭く執拗に書く者もいる。感情は排して書いているが、聴きいれられないことは、いつまでも続いたりする。私は、そうした人物の中の一人とは、過去の軋轢があるし、その人物のアンチに組みしていると言っていいのかもしれない。その上で言えば、正しいことも言っているが、受け手が受け止めることが出来るのか、目的と手段の一致できているのか。その辺りで、すれ違うことは多い。私も、沢山してしまったはずである。

炎上拡散するときは、受け入れない→反論する→門戸を閉ざす(アクセス禁止等)→コミュニティ仲間同士で嫌がる会話をするの流れが連鎖していることが多い。


最適な答えは、仏法に基づけば、方向性は変わらない。ただ、一人一人の状態によって、最適な答えは変わる。
皆考えていることは異なる。異なる意見を止揚するときに、インテグラル思想、弁証法的な考えはとても大事だ。もちろん、仏法に相違する場合は、劣後である。

ここまで、書いたら結果的に釣りになってしまうのだろう。

ほっといてという声が聴こえてくる。
だから、放っておく。

私は、なにもできない無力者。
人を変えることはできない。
傷付けた過去を変えることはできない。
しかし、自分を変えることはできる。
今を変え、未来を変えることはできる。
だから、今はそれだけをしていく。