佐村河内守作品別人作に思う 4

放っておいてくれと言った人物から、書くたびにリアクションがあり、おいおい、呆れ、と複雑な気持ちだ。
変わらず執着していると言うべきか、お互い平行線でエンドレスループになることはわかっていはずにもかかわらず。

その作品が最終的に残るかどうかは不当な弾圧によって消されると言う場合を除けば、時間が経っても語り継がれるかに尽きる。
その過程で残るのは強い個性=アクを持ち、普遍性を有する者が、ベートーヴェン以降は多かった言えるに違いない。
晩年のベートーヴェンより売れっ子だったデュポーアは埋没しているし、モーツァルトと同時代を生き、ゲーテも絶賛したチマローザサリエリと同様マイナーであるように。J.S.バッハより人気があったテレマンが同時代のややマイナーな存在であるように。
フォロワーの宣揚が永続的に続くかで決まると言うべきか。
同時代の作品がその後も残るかは誰にもわからないところがある。古典を知り、今を知る。人それぞれの一流があるに違いない。その中で、あの作品を聴き続けるのは、私が、プロットに惚れ込んだからに他ならない。

意見は異なれども、ありとあらゆる可能性を考えてはいる。これは、視野狭窄になりやすい癖に振り回されないようにするために試みてきたことであり、ケン・ウィルバーが提唱するインテグラル思想の共感者でもあるからだ。

共に見ている方向も異なるし、作品の完成よりも先にしなければならないことがある。
今、しようと試みてずるずる遅れている。
しようとするたびに魔が付け込むすきを与えているからであり、今は、振り切ろうと序走に入った辺り。
これをクリアしないことには先はないということを、私は忘れてはいけない。
その道を歩ませなくすることに対して、魔と思い、負けないように向き合わなくては。
毎日書くことは頭の整理を兼ねているためやめないが、余計なものはどんどん見ないようにして、SNS依存状態から脱していくためにも。

さて、昨夜のツイート拡散で興味深い文章を見つけた
森下唯オフィシャルサイト » より正しい物語を得た音楽はより幸せである 〜佐村河内守(新垣隆)騒動について〜

この分の前半は、胡散臭いと感じた方の多くが感じたことと一致するはずである。一言だけのタイプでないことも好ましい。私が、胡散臭いと言った人物とのやりとりが、Twitter上で書かれているが、こういう意見であれば、そう見方もあるかもしれないと率直に答えていただろうと思う。プロットを認めながらの、違和感を感じると言った感想は、他に何人か見ているし、私自身過去からの引用が鼻に着いて嫌だったと言うのが、初回に聴いた感想でもあったからだ。
私は、そこをスルーすることで鈍感であった節がある。または、相手の個性と思いスルーしていたか。それはかの人物のサイコパスを見破れなかった理由の一つであるとも思う。ただそれは、ゴーストコンポ―サーの言葉を聴いてリセットが出来たからであろう。もちろん後知恵バイアスは拭い切れない。

クラシック業界にある問題のひとつとして、能力のある作曲家は(多くの)演奏家が演奏したくなるような曲、聴衆が聴きたいような曲を書こうとしない、というのがある。(中略)あらゆる技法を分析し自家薬籠中の物とできるような人が、過去の作品の焼き直し・パッチワークを作ることに甘んじて満足できるわけがない。感動的に盛り上げるための和声進行も知っている、恐怖を覚えさせるためのリズムも知っている、きらめきを感じさせるための管弦楽法も知っている。つまらない、つまらない。使い古された書法も聞き飽きた調性の世界もつまらない。面白いものを、自分だけの新しい音楽を書きたい。そういうわけだから、自分の作品として、あえて過去の語法に則ったスタイルの音楽を書く人間は、現代にはまずいない(そこからして胡散臭かったわけだ)。往年のクラシック作品みたいに聴いていて素直に心の動くような書法の音楽は、たとえば映画やアニメ、ゲームのBGMとして「発注」されない限り、なかなか生まれない。

その後、そういった経緯から能力のある作曲家が書くための知性と交響曲を書こうと言う誇大妄想な欲求の同居は考えられず交響曲は書かれない。しかし、そういう仕様書があればこれだけの作品を書くことができるという主旨のことを綴り、

個人的には、こういうプロデューサーつきのスタイル、現代のクラシック業界の停滞を吹き飛ばすひとつの手段として広まっても良いんではないかとさえ思える。制約があってこそその枠内で創意工夫を凝らして良いものができることだってある。

最後は

「凄い曲を世の中に出してやろう」という強い意思だけは本物であったのだ、と感じられる。記者会見で新垣氏が述べた言葉が印象に残っている。その言葉だけで、この事件は悪いことばかりではなかったんだと思えた。彼はこう語っていた。

彼の情熱と私の情熱が、非常に共感しあえた時というのはあったと思っています。

最後に私が、彼の反社会性を見破れなかった原因を書こうと思う。
1.金スマで、稲垣の後ろからの声をダイレクトに返事したシーンの見落とし。
dailyMotitonにUPされていたので、確認した。evianoさん、ありがとう。
胡散臭いと感じた人はこの時点で、探知できていたかもしれない。
2.彼の神秘的な表現を、個性の一つと捉えてしまったこと。
おそらく多くの方が胡散臭いと感じていたことの一つであるからだ。
皮肉なことに私の幻聴経験が、判断を誤らせたと言えるかもしれない。
3.人格と楽曲の切り離し。
ヴァーグナーバイエルン国王 ルートヴィッヒ2世のパトロン・交友関係は有名だ。見方を変えれば、ヴァーグナーの野望実現のため、いい道具にルートヴィッヒ2世はされていたといえる。第2の妻コージマとの結婚前後で不穏になりかけたり、常に蜂蜜ではなかったとされている。それでも関係が続いたのは、人物ではなくて作品に惹かれていただろうから。今の私なら、このルートヴィッヒ2世がそういう関係でいたのかわかるか気がする
4.文章で書いたことを、そのまま受け止め、それ以上の深読みを苦手としている点。
これは、WAiS-3の結果から言及できる。
そうなる背景として抽象的論理的思考能力が人より苦手なことに起因している。
5.人を信じやすく騙されやすい。
6.慧眼、仏眼を持たぬゆえ。
楽曲そのものに罪はない。そして楽曲の内容のみに可能な限り特化をしてきたつもりである。
しかし、氏が演じた姿、虚構の物語に言及したことは決してなかったわけではないし、そのことで犠牲を知らず知らずに出していたはずである。
よって、2-3日前から開始しているが、私が遭遇した、又ROMをしていて、誤った誘導をしてしまった方々に深く謝るものであり、挙げている唱題は、その方々の精神的ダメージからの解放と、曲がどうしても好きになれなかったという場合は置いておいて、人が嫌いで曲も嫌いにならないことを祈るものである。