グレの歌考察 その2

この曲は、シェーンベルクが後に書いた室内交響曲第1番のように、「太陽」の動機、「愛」の動機、それらに対する動機(多くは2つの動機の変形)からなるソナタ形式の提示部と冒頭は取れるし、前奏曲が後のドイツ語オペラのプロローグへの萌芽とも取れたり、第3部に緩徐楽章風、スケルツォ風のところがある。また第1部の間奏曲は、ソナタ形式の展開部とも取れる。そう考えると、自由に再構成された交響曲風の形式が垣間見える。この交響的形式は、そのオーケストレーションともどもシュレーカーのオペラに影響を与えているように思える。またベルクのオペラが第2幕の真ん中から鏡像型をなしているが、その萌芽も「グレの歌」から見えてくる。日没から始まり、日の出に終わる。冒頭の「太陽」の動機の一つは、日没の動機であり、その動機は終幕の太陽讃歌においてはその鏡像型である、日の出の動機となって表れる。
そしてシュレーカーのオペラ、管弦楽作品、コルンゴルトシンフォニエッタ、オペラには、如実にその影響が刻まれている。
その中で、埋没されない作品はとても少ないように思えてくる。ツェムリンスキーでは多調性、多旋法が取り入れられている抒情交響曲ショスタコーヴィチのような乾いた音響と簡潔さが印象的なシンフォニエッタ。シュレーカーの中では、飛び切り印象派の色彩感に満ち溢れたヴァルツ・レンテと末期ロマン派、印象派表現主義的な色彩を織り交ぜた室内交響曲、打楽器が印象的な新古典主義の影響が多々見られる未完のオペラメムノンの演奏会用前奏曲シェーンベルクがロマン派時代の最高傑作の自作こと4度和声、4度音程を核に増和音、全音音階がふんだんに使われた室内交響曲第1番。コルンゴルトが、シェーンベルクの不協和音の扱いを取り入れた映画「霧の中の戦慄」、交響曲嬰へ調、コルンゴルトのメロディーメーカーとして力量に頷くヴァイオリン協奏曲、シェーンベルクも冒頭のアダージョの楽譜を見て先進性に驚いた調的トーン・クラスターが用いられたマーラー 交響曲第10番といった作品以外は、グレの歌の亜流に取れてしまうところがある。これらの作品が埋没したのは、音楽評論の変化、ユダヤ系弾圧、アダルト指向弾圧もさることながら、2番煎じであったことも関係しているように思えてくる。ではなぜ、グレの歌は埋没しなかったのかというと、シェーンベルク」は20世紀の先進的な音楽の始祖であると同時に、駆け出しの頃、皆と路線を違える前に、その路線の集大成を一足先に生み出すことに成功したこと。ユダヤ系弾圧をアメリカ亡命で逃れたことで、埋没する機会を失ったという幸運が大きい。コルンゴルトであればオペラ「ヘリアーネの奇跡」が生前最もお気に入りであったことが知られているが、悪役である王のテーマは極めて不協和であるものの、どこかモティーフにセンスがないということで除いた。「霧の中の戦慄」は、「ヘリアーネの奇跡」ストーリーも近い。原作者が同じであったとも記憶する。その音楽性も近く、コルンゴルト自身、自作では最もお気に入りの映画音楽であったため、「ヘリアーネの奇跡」はパスして「霧の中の戦慄」を取り上げることにした。
そういう観点から、シェーンベルクグレの歌」は、マーラー交響曲第8番と同様極大編成かつ長大作品=至高の作品を渇仰したヴィーンの民衆の心をとらえた。後期ロマン派の集大成であり、そこから溢れだしたものの片鱗を見せているところが、20世紀的な作品と思えてくる。この作品は、時代が追い付いていたために、シェーンベルク生涯唯一のヒット作になったのだけど、ゲーテモーツァルトが指向した万人が娯楽として楽しめて、形式美、内容、精神性の高さといった芸術性の高さも同時に追求しつくされているところに注目したい。
大衆性を持ちつつも芸術性を求める、これが本来求められる評論の姿勢ではないだろうかということにも気づかされた。
今回、グレの歌の真の姿に出会えたことに感謝。
以下は、その時代を彩った末期ロマン派の精華をグレの歌とともに列挙。