去ってゆく仲間、そして今

もう今月から直接関わることはなかったのであるが、昨日でまた仲間が去って行った。
思えば、直接関わったのは、去年の3月16日以降。
最初は日曜朝、4回あったかどうか。そして去年の秋、まさかの朝方。
生活リズムが狂っていき、遅刻も多かった彼女。
まだ、何も言葉をかけていないのであるが、まずはお疲れ様といいたい。
渡したいものは、残りの1-2つを何にしようか迷っている。
少しずつ、気力が上向きつつあるといってもそこはそれ。生来のマイペース、暢気が災いしているに違いない。
結局何ができたのかなと、ふと思う時もある。そして、職場にいる意義はいい意味でも消えてゆく。護りたいものがどんどん壊れて消えていくからだ。

音楽関連でも書きたいものがあるが、なかなかまとまらない。
今、夢中になっているのは、去年の秋からの流れで岡崎律子さん。そして、モーツァルトではヨーゼフ・クリップスが演奏した作品が気になる。いくつかは、手にいれようと思っている。この人がモノラル録音で取った演奏を彷彿とさせるレクイエムも手にいれる予定。クリップスでは交響曲選集、ピアノ協奏曲第24番、第25番、ドン・ジョバンニを。
爆速爆演でもなければ、音響的な華があるわけではない。しかし、コンセルトへボウ交響楽団からヴィーンフィルを思わせる色彩を醸し出し、ヴァルター同様、全パートを歌わせることにより、典雅・優雅の極みであることもさることながら、不思議とメロディとメロディの重なり合いが浮かび上がるところが素晴らしい。ヴィーン情緒それもヴィーンフィルの音色を他のオケに移植はクリップス以外なしえなかった偉業であり、この音色はセルが本来クリーヴランドに移植したかったに違いない。この点を持ってヴィーン情緒を伝えることができた唯一の指揮者に思えてくる。非常にグローカルな人物ともいえる。モーツァルト嫌いで知られるグレン・グールドが彼の指揮なら納得できてしまうというのはそういうところに違いない。音響的な華はカラヤンが、テンポの緩急・ダイナミクスでものを言わせるのが、フルトヴェングラーショルティアーノンクールらであれば、それぞれの対極に当たる。ゆっくりとしたテンポ、構造を浮かび上がらせる様はクレンペラーに、歌わせ方はブルーノ・ヴァルターに近い。人の好さ、ユダヤ系とあって、ポストは不遇で恵まれなかった、ヴァルター、ベームらと同等以上のモーツァルトの解釈者に思えてくる。そういったところを調べてみたい。人柄良いように見えて、ロバート・カルショウの伝記からは、戦後盛り立てたにもかかわらず排斥されたことへの反動で、聞くに堪えない罵詈雑言を吐いた皮肉なエピソードも残る辺り、必ずしも人格者と言えるわけではないが、そういう指揮者が多いのは知っているため、そこはほとんど触れない。また新しいモーツァルト像が見えてきそうだ。