ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク監督 映画パルジファルを見た

これはTwitterで書いた内容を加筆再構成したもの。


これは凄い。映画だからこそできる見せ方。実は、パルジファルは、ヴァーグナーオペラの中で、最も早い段階で、実写映画化されていたみたい。なんと第2次世界大戦前から記録がある。

この映画の解釈の仕方は、少なくとも好きな路線ではない。ナチスによる全体主義がドイツを支配する様に置き換える演出らしい。この監督は、ヒトラーが史上最高の演出家であり、ハリウッド映画やディズニー、チャップリンさえ、その影響を受けなかったものはいないとも。政治イデオロギーはアンチであろうが、演出家としてのヒトラーに対して讃嘆している。高畑勲らと同じ年に生まれており、あの時代の空気を実際に味わった人間故の発言であるかもしれない。しかし詳細を書いた日本語資料は見当たらない。途中、駒十字とヒトラーの人形が映るくらいで。近年のバイロイト音楽祭の演出ほど露骨に出しているわけではない。ただ、ナチス関連繋がりでそういった演出に思想的影響はあるかもしれない。ドイツ語、英語も見なければならない模様。なお、この監督の当映画に関しては、ウィキペディア Englichにはある程度の記載があるので、翻訳して読む価値はあると思う。
この監督の美学・理想は、ヴァーグナーの楽劇と、ブレヒトの演劇の融合とのこと。よって、演技の異化が起こり、音楽は、ある種ミスマッチに、対位法的に、ぶつかりあい絡み合う。この映画は、音楽のシンクロと異化の使い分けが見事。舞台装置、美術の職人芸は、ルキノ・ヴィスコンティに勝るとも劣らない。私も、本質的には、耽美なものはこの上なく愛好する者であり、美を求めて滅びる者への理解はあるものの、私の苦手なマーラー交響曲第5番 第4楽章アダージェットの調べに乗せて、時に妖艶ですらある均整の取れた美少年タージオをひたすら追跡して見続けるこの映画は、私にとっては理解しにくい世界である。未だに理解が止まってしまっている。せっかくiTunesでFullHDを購入したというのに。ルキノ・ヴィスコンティが追い求めている美と私は根本的に違うのかもしれない。

この監督関連で、見れる日本語サイトは、個人ブログが多いので、確証はまだとれていないところは多いのであるが、一通り列挙していく。
【論考】ハンス・ユルゲン・ジーバーベルクの映画における音楽 − 特にドイツ国歌の旋律について - 都市科学研究会ブログ
Tubird's Nest 映画「パルジファル(1983年)」

まず、舞台の上で、オペラが上映される様を映し出す。この辺りは、ベルイマン魔笛に通ずる。
冒頭第1幕への前奏曲が流れる間、パルジファルの生い立ちが、人形劇で描かれている。これは見続けるとわかるのであるが第2幕における、主人公パルジファルの生い立ちを語られる場面のいわば先行フラグである。そして人形劇のアップから舞台へ移行するファーストシーン。そして人形劇で印象的なのは、大小ヴァーグナーデスマスクヒトラーの人形である。
舞台は、廃墟となった都市に差し替えられている。撮影地はモンテカルロのオーケストラであることと、フランス・ドイツ合作ということもあり、モンテカルロの方だろうか。気候もモンサルヴァート城跡と修道院があるバルセロナ郊外標高1000mのモンセッラに近い点からも。
そのモンセッラはこんなところとのこと。
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印象的なシーンは、本来のト書きではあまり色香に振られず、21世紀以降の読み替えではR指定すら存在している花の乙女がパルジファルを誘惑するシーン。タンホイザー ヴェーヌスベルク、トリスタンとイゾルデと並ぶ、官能的な音楽であり、ヴァーグナーが唯一音楽におけるユーゲントシュティールつまり、末期ロマン派、ヴィーン世紀末的なものを書いた場所でもある。演技と歌はアテレコであることを逆手にとって、ベニスに死すに負けじと劣らず魅せる。本来のト書きではバレエも登場するのであるが、ここでは動きがない。花の精故か。ただ随所にトップレストになっているので、臨界点であったことも事実であろう。また異化からくるシュールな表現の表れか。女優の選定に関しては、ルキノ・ヴィスコンティ ベニスに死すにおけるビョルン・アンドレセン級の要求をクリアしているように思えてくる。それは、ミロのヴィーナスを現物を見た人が良く述べる、遠くから見ると均整がとれていて、近くで見ると妖艶この上ないを感じるからだ。数名のトップレストのブロンドヘアのモデル風の面々に同じものを感じてならない。
この直後登場のクンドリーは老け過ぎとの意見もあるが、パルジファルに対して、母になりきったふるまいもあるのでこれはあり。声も、幾分低めのメゾ・ソプラノでもあり、なおありだ。このキャラクターは、母親、堕ちた女性、マグダラのマリア、恋人が共存した複雑なキャラであるから。心は乙女、振る舞いは悪女なキャラクターとしてアルバン・ベルクのルルも挙げられると思われるが、より複雑なキャラクターだと思う。ヴァーグナーの過去作品で言えば、タンホイザーのヴィーナスとエリーザベトの両面を合わせたキャラクターであるから。なお、最終幕のクンドリーは実に、マグダラのマリアになっている。
この直後のクンドリーとパルジファルのディープキスシーンはどう見ても母親と息子にしか見えない。
そして釈尊の覚知から着想を得たパルジファルが苦悩を知り覚醒するシーンが来る。
ここからかが、この監督の演劇と音楽の異化が始まる。
というのは、途中で女性に交代する。変身するわけでもなくただ入れ替わる。しかしその後も悪の親玉であるクリングゾルが落とした聖槍を受け取り、最後まで聖槍を持っているのは男性の方である。そう覚醒すると2人で1人になるのだ。ここでは性すら超越止揚統合した存在として描かれている。女性の方は容姿も服装も全く異なる。しかし当然ながら声は男声である、あまりにもシュールかつ、なぜか似合って終盤では神々しくもある。ここで表現しようとしているものは、システムによる支配なのか、民衆を全体主義の熱狂に陥れるフラグなのか、両方か。
クリングゾルが聖槍をパルジファルに投げてパルジファルがキャッチするシーンは、投げ落としてクリングゾルは倒れパルジファルは聖槍を受け取る設定に変わっている。これもまたシュール。

第3幕のハイライトである、聖金曜日の奇跡以降パルジファルには常に後光が差している。キリストの末裔を表現。ヒトラーが使った演出でもある。アンフォルタスとクンドリーの結末は、クプファーと同じく、前者は死、後者は生。私はともに生であるべき派である。最後はカメラが舞台からどんどん俯瞰で引いていくと、その舞台が巨大なワーグナーデスマスクの上で繰り広げられているのが映し出され、さらにカメラが引くと、それ自体が少女が手にしたガラス玉の中の光景であった点が生体人形劇色を強める。男女パルジファルが抱き合っていいのか?冒頭で女性パルジファルが映り、エンドがジャケ写であることも印象的。ローエングリンにつながる白鳥も象徴的に使われる。一種神話のように描いてもいる。

傷ついた聖杯王アンフォルタスの名演技は、指揮者。あの顔芸はインパクト絶大。老騎士グルマネンツは若すぎる感はあるが、歌っている本人である。こちらも当然アテレコ。

長いが、見えいて飽きが来ない。まだ自分の言葉に置き換えができていないが、これからもこの映画は機会があるごとに観ようと思う。美しくも異化からくるシュールさがほどよいスパイスになっているそんな映画だ。スーザン・ソンタグから言わせると、この映画監督の作品は20世紀最高の総合芸術であり、映画であるという。その映画のタイトルは7時間15分ある「ヒトラー、あるいはドイツ映画」。分けても中々見れないので、見るかは未定。カルト的人気を誇るのもわかる、非常に美しい作品だ。





最後に、この映像も交えたブロ友とのやり取り、現在進行形。
ワーグナー 「パルシファル」 シュタインを偲んで さまよえるクラヲタ人