佐村河内守作品別人作に思う。 1

このところ、クラシック界は、著名人逝去のニュースが多かった。
去年も、作曲家だとアンリ・デュティユー、指揮者だとヴォルフガング・サヴァリッシュといった方々が亡くなられた。
今年も、指揮界の頂点にいたクラウディオ・アッバードが亡くなり、読売日本交響楽団桂冠指揮者の、ゲルト・アルブレヒトが3日前に亡くなられた。

そして、昨夜twitterのリツィートを介して知ったこのできごとがやはり、最もショックが大きかった。
というのも、 これまでの逝去は、あまり関わりのない方々であったからだ。
クラウディオ・アッバードの音源は、以前ベルリン・フィル指揮ベートーヴェン交響曲第8番で聴いて以来で、最近は聴いてみたい演目で、アッバードが指揮しているから、結果的に聴いたものが多かった。


佐村河内守氏は、尊敬に値する人と言う認識であったからだろう。
現在世界最高の知性と言われた理由は、何故かという探求が聴くことを後押しした。
自分が聴いた中で最高峰と思っていた作品と聞き比べたことは今でも昨日のように思い出す。
もちろん、そう称えられるに値すると考えたからこそ取り上げて、度々綴ってきた。
その日数75、記事数82。
おそらく書いた数だけであれば、屈指であると思う。
私自身は、その音楽性に惹かれて好きになった。
だから、別の人物が書いていたとして、賞賛されるべきはその方であると考える。
そして、その知的クオリティの高さに変わりはない。
よって、これからもその音楽を追い続けることに変わりはない。


聴覚障害の作曲家 別人が作曲 NHKニュース
この記事を見ていると、はじめて創ってもらっていた時期は、初の映画音楽と言う言葉から映画「秋桜(コスモス)」の頃からであることが確認できた。
ということは、鬼武者 交響組曲"RiSiNG SUN"は、いうまでもなく。

この言葉を、辿っていくと、鬼武者 交響組曲"RiSiNG SUN"が初演された鬼武者制作発表会の時のエピソードなどで、疑問に思うところが出てくる。
バイオハザード ディレクターズ・カット版を、打ち込んだ際に、信頼のおける助手といった言葉が出てくるが、その人物が、その別の人物なのだろうか、とも思えてくる。
『楽曲の構成をした』との言葉を見ると、名プロデューサーの感がある。

twitter検索を見たら、私の知っている範囲で、リアクションをした方は3名。
一人は、こういう形でみるとは思わなかった斧さん、evianoさん。そして茂木健一郎さんである。

そして、茂木健一郎さんの連続ツィート第1165回「音楽自体を、聴いてあげるべきだと思う」がとても印象的であった。




私自身、今のところ、真相は何とも言えない。
ただ、私自身が「闇が深ければ深いほど、祈りの灯火は強く輝く」調べに鼓舞され、コラールに同苦する調べを感じたことに変わりはないのだ。
全聾、うさんくさいという面々とは、度々やりあった。そしてそうした枝葉は、私自身はマンマ・ミーアだと思っている。
私自身、作曲家、幅を広げて芸術家と呼ばれる人たちで人格者と思った方はほとんどいない。フランツ・リストは、数少ない人格者と言える1人であったけれど、誰かからも好かれるが故に大変な思いをしたし、セックス依存症であったとされている。ガブリエル・フォーレもベクトルは近い。ブルックナーは、強迫神経症を患っていたし、怪行奇行が多かった。曲風とは正反対の小心者。ブルックナーベートーヴェンモーツァルト発達障害を背負っていたとされているのも、記憶に新しい。シュトックハウゼンヴァーグナーは反社会性パーソナリティー障害であったし、ヘビースモーカー、アルコール依存症、大食漢はもっと多い。しかし、彼らの芸術は、まぎれもない本物だ。好みによる好き嫌いはあるにせよ。
私が思っていたよりも、人格面で落胆するところはある。
しかし、その音楽は、そのゴーストコンポ―サーが作曲していたしても、本物だと言う思いは変わらない。
ゆえに、その人格がどうであれ、音楽自体で、判断すべきもの。
だから、この出来事は、音楽自体を、聴く方向にシフトするきっかけになればいいのではないだろうか思う。
その上で言えば、私はそのゴーストコンポ―サーのことを知りたいと思っているし、佐村河内守氏自身の手のみで書かれた作品を知りたいと思う。
共同制作者という形で、決着がつけばいいのではないだろうかと思えてくる。
早期の解決と更なる飛翔を祈る者である。そして宿業を使命へと転換することを祈る。
私自身、お会いした時の約束を果たすために。