信心の王者たれ!

創価学会員であるカッシーニが綴るblogであります。


日常を送る中で感じたり、考えたりしたことを書き綴ったものであります。


先生の、正義を未来永遠に宣揚するとの誓願を込めて当blogをstart致します(スタートした日は2008年10月25日)。


2008.8.31の聖教新聞3面の信越代表者会議での名誉会長のスピーチにて、『信越は日本一なる信仰王者』との御言葉を頂きました。「信心の王者たれ!」とは、その御言葉から、私が考えたタイトルでございます。


ここに綴る事は、個人的な思い故、私の主観がとても強い事と思います。
ですので、参考程度にして下されば幸いであります。


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好きなモーツァルト交響曲はモーツァルトのスコアから最大限の情報を取得できる演奏となった

モーツァルトのスコアから最大限の情報を取得できる演奏を無意識に選んでたオチ。

 

「第41番、メロディだけ聴いて楽しい?」という問い自体が、もう聴取レイヤーの違いを露呈。
自分は旋律を単体で切り出すより、旋律がどの声部に置かれ、何とぶつかり、何を準備し、どう再配置されるかの方に面白さを感じている民だから。
旋律中心の縦一列ではなく、複数声部・和声・リズム・構造を横並びで聴いている。
だから、レヴァイン、ドホナーニみたいな、演奏の基礎スペックが非常に高いから、何度聴いても粗が出ないのに惹かれるのだと思う。
時代ごとの流行語に依存せず、オーケストラの精度、声部の見通し、バランス、構造の自然さ、録音の完成度だから、じっくり聴くのにいい。
要するに選別基準が、
“モーツァルトをどう美しく歌うか”ではなく、
“高密度な古典派スコアをどう完全に機能させるか”でしかなくて。
だから、世間一般的なモーツァルトの最高解釈者(ヴァルター、ベーム、C.ディヴィス)やモーツァルト指揮者よりも、万能型の高情報量勢でモーツァルトに特別に強い指揮者に至ったのだと思う。

 

日本の音楽評論家のドホナーニとまだキャンセル・カルチャー前のレヴァインのモーツァルト交響曲評が的はずれ過ぎて草。聴取レイヤーの違いがあからさまに。
ドホナーニのモーツァルト交響曲41番をグラマラスな現代的プロポーション?はい、どこがグラマラスやねん。
レヴァインに至っては、中身がない、ワンパターンと「指揮者自身による解釈的な掘り下げ・意味づけがもっと前面に欲しい」と言いたいんだろうけれど、完成度が高い、情報量が多い、非誇張、構造が見えるとある訳で。
批評の方法論が雑、
「自分の好みに合わない」→「内容が薄い」「掘り下げ不足」と価値判断へ直結する
テンポや造形の好みを、作品理解の深浅と混同する
「グラマラス」「ワンパターン」などの形容が、具体的な声部処理・フレージング・配置・アーティキュレーションに落ちてこない
演奏そのものより、既存の「モーツァルトらしさ」の規範で採点する
のが目立つ。
「日本のクラシック評論には、嗜好の表明を作品分析・演奏分析と取り違える悪習がかなりある」

ラヴィキラン、サンルコル、レザ・ヴァリで共通する点。それはタネーエフとも遠くない

最初は違いから。ラヴィキランも、検索の入口を**「現代音楽/contemporary classical」**にするとかなり落ちやすいです。

実際の所属感はまず
Carnatic music / Indian classical / world music
で、その内部から Melharmony を作っている。だからブレーズ、リゲティ、ファーニホウ、スペクトル楽派みたいな西洋現代音楽の系譜を追っていても、まず出てこない。

サンルコルも同様で、
Ottoman-Turkish music / jazz / fusion / contemporary concert music
を横断するから、現代クラシック一本で探すと見落とす。

この二人の共通点はかなり明確で、

「現代音楽の作曲家が民族音楽を使う」
ではなく、
「伝統音楽の内部から、現代的な多声化・和声化を発明する」

なんですよね。

だから分類上は伝統音楽・ワールドミュージック側に残りやすいのに、やっていることは相当に現代作曲的。

レザ・ヴァリは逆に、西洋現代音楽教育をど真ん中で受けているので、三人の中では一番「現代作曲家」として検索に引っかかりやすい。
ラヴィキランとサンルコルは、ジャンル分類そのものが視認性を下げているタイプです。

今回の探索でかなり見えましたね。

現代音楽史から探すと見落とす。
伝統理論の現代化から探すと出てくる。

この差がでかいです。

 

ここからは共通項。

そうなんですよね(´・ω・`)
レザ・ヴァリだけは「現代作曲家」という制度側の入口をちゃんと通っている。テヘラン→ヴィーン→アメリカの音大・大学院→作曲家/教授、なので検索しても現代音楽の棚に出てくる。

一方でラヴィキランとサンルコルは、

ラヴィキラン
→ インド古典音楽の演奏家・作曲家・理論家
→ そこからMelharmony

サンルコル
→ オスマン音楽+ジャズ+プログレ+民族音楽研究
→ そこからPolyphonic Makam

なので、発想はめちゃくちゃ現代作曲的なのに、制度上の所属ジャンルが現代音楽じゃないんですよね(´・ω・`)

そして三人ともタネーエフに案外近い、はかなり面白い共通点だと思います。

音響は全然違うのに、やっていることを抽象化すると、

既存の高度な音楽体系を前提にする
→ その体系の規則を厳密に分析する
→ 複数声部をどう合法的に同時成立させられるか考える
→ 結果として和声・対位法を再編する

という方向が共通している。

タネーエフなら、

調性+主題 → 転回対位法、模倣、反行、ストレッタ等の可能性を検証
→ 大形式へ統合。

ラヴィキランなら、

ラーガ+ターラ → 各声部がラーガの規則を破らないよう多声化
→ Melharmony。

サンルコルなら、

makam+seyir+usul → 微分音と旋律進行を保持したまま多声化
→ Polyphonic Makam。

レザ・ヴァリなら、

dastgāh/maghām → 西洋平均律・西洋polyphonyそのものを相対化
→ Persian Polyphony。

つまり全員、かなり強く

「音楽は音を並べることではなく、音同士の関係を組織すること」

というタイプなんですよね(゜д゜)

だからタネーエフ好きの耳だと、民族的音色より先に**「あ、この人も規則体系から音楽を生成する人だ」**と反応するのかもしれない。

面白いのは、タネーエフは西洋対位法そのものを極限まで押し広げた人。
この三人は逆に、非西洋の高度な理論体系から西洋的多声性を作り直した人。

なので位置関係としては、

タネーエフ:西洋内部から対位法を極限化
ラヴィキラン/Sanlıkol/Vali:西洋外部の理論から対位法を再定義

くらいの違い。

音楽史上は全然別の棚なのに、作曲家の頭の使い方が妙に似てるんですよね。

 

たぶんそれですwwwwww
音色や民族性より前に、**「規則体系を尊重しつつ、その内部で複数声部の関係を設計する」**という思考回路に反応したんでしょうね。

だからラヴィキラン、サンルコル、レザ・ヴァリは、表面的にはインド/トルコ/ペルシアで全然違うのに、聴き手側では

「あ、また関係性を組織するタイプの作曲家だ」

で一本につながる。

タネーエフ好きからすんなり入れるの、かなり納得です。
むしろ今回の収穫は、自分の好みが地域ではなく“作曲思考の型”にあると分かったことかもしれません。

 

そうですね。結局、Kasshiniさんが反応してるのは地域性そのものじゃなくて、**「素材を並べるのでなく、関係性を設計する作曲家」**なんだと思います。

タネーエフ的発想をかなり抽象化すると、

主題・旋律・リズムを独立した部品として扱う
→ それぞれの関係を規則化する
→ 複数声部を同時に成立させる
→ 全体形式へ統合する

という感じ。

だから一時期の崎元仁や岩田匡治、菅野よう子にも通じるんですよね。表面のジャンルはゲーム音楽、ジャズ、民族音楽、オーケストラ、電子音楽とバラバラでも、**各パートが役割を持って噛み合い、音楽が「構造として動く」**瞬間がある。

今回の3人も同じで、

ラヴィキランは ラーガ/ターラを公理にして多声関係を設計、
サンルコルは makam/seyirを壊さずpolyphonyを設計、
レザ・ヴァリは dastgāhから多声組織そのものを再構築。

なので「民族音楽だから好き」ではなくて、もっと根本では

タネーエフ型の思考を、別文明の音楽理論でやってるから好き

なんでしょうねwww

これが分かると、今後の発掘条件もかなり強いです。
国名やジャンルより、

「この作曲家は、音楽素材どうしの関係を体系として設計しているか?」

で探す。

そうするとクラシックでも現代音楽でもゲーム音楽でもワールドミュージックでも、同じ嗜好軸で拾える。

今回ラヴィキランから始まった探索、かなり重要でしたね。「好きな音色」より一段深い、“好きな作曲思考”が見えた感じです。

イランの現代音楽はイラン出身のレザ・ヴァリが面白い

**レザ・ヴァリ(Reza Vali, 1952–)**です。イラン生まれの作曲家で、現在はイラン系アメリカ人。決定的なのは、彼が2000~2001年頃にそれまでの西洋現代音楽的な作曲から意識的に離れ、イランのDastgâh/Maghâm体系そのものから多声音楽を作る方向へ転換したことです。本人の公式ディスコグラフィーは、2001年に「European music systemから離れた」と明記しています。

しかも目標が凄い。

西洋平均律を置き換える
西洋的polyphonyを置き換える
西洋的形式を置き換える
Dastgâh/Maghâm由来のリズム周期を使う

……これ今回探してたやつそのものじゃん。

そして2000年以降の自分の音楽を、本人がはっきり “Persian polyphony” と呼んでいます。代表的なのが連作 《Calligraphy》。

https://youtube.com/playlist?list=PLCts0UwnMWmzf2C0EOBzMGF6sSDPF7UYQ&si=ZD9GWNF5np7JTc70(Youtubeプレミアムユーザーなら聴けるプレイリスト)

 

https://youtu.be/gHHhql8sMW4?si=oPyZEZVcPm38HjDE(カルぺ・ディルム弦楽四重奏団の公式、無料ユーザーでも見れる)

初期12曲だけでも弦楽四重奏、独奏ヴァイオリン、チェロ、フルート、管弦楽などいろいろな西洋編成で書かれていて、調律・リズム・形式・多声構造までDastgahに関係していると公式資料にあります。

これはラヴィキランと並べると綺麗です。

ラヴィキラン
Raga / Tala
→ Melharmony
→ ラーガを保存したまま和声・対位法を作る

サンルコル
Makam / Usul
→ Polyphonic Makam
→ makamの微分音・seyirを保存したまま和声・対位法を作る

レザ・ヴァリ
Dastgâh / Maghâm
→ Persian Polyphony
→ 西洋平均律・西洋多声法・西洋形式そのものを置換して、ペルシア側から再構築する

……三人目おった。

しかもヴァリはかなり徹底しています。《Toward That Endless Plain》では、ネイ+オーケストラという編成なのですが、本人の解説によれば、西洋的に聞こえる部分も、暴力的な無調部分さえ、全素材がDastgâh/Maghâm体系から導出されている。

これ、かなり重要です。

「ペルシア旋律のところだけDastgah」ではなく、

無調に聞こえても内部生成規則はペルシア

なんですよ。

さらに《Calligraphy No.13》を分析した2021年の研究では、ヴァリがペルシア伝統音楽の javāb-e āvāz(歌への応答)やドローンなど、既存の多声的萌芽を発展させていることが指摘されています。つまり西洋対位法を単純移植するのではなく、ペルシア音楽自身に存在する「複数声部になりうる原理」を掘り出して拡張している。

これはまさに前に話した「和製ラヴィキラン」を考えるときの、

日本のヘテロフォニーから日本独自の対位法を内生させる

のペルシア版なんですよ。

そして入口として相当良さそうなのが、

《The Book of Calligraphy》

https://youtube.com/playlist?list=PLCts0UwnMWmzf2C0EOBzMGF6sSDPF7UYQ&si=ZD9GWNF5np7JTc70

です。2000~2011年の《Calligraphy》12作品をまとめた2枚組で、西洋楽器だけの曲もかなり多い。特に弦楽四重奏でDastgah由来の微分音と多声法をやっているので、今回の好みを判定するには理想的です。

YouTubeにも **《Calligraphies I–XV》**をまとめて聴ける音源が検索で出ています。

さらに2024年には 《Esfahân: Chamber Music of Reza Vali》、2025年には **《The Darkness of Fury》**まで商用録音が出ていて、ラヴィキランより録音環境はむしろ恵まれています。公式サイトは《Esfahân》について、西洋的counterpointとformを避けながら、それでもpolyphonicかつ高度に構造化されていると説明しています。

これ、Kasshiniさんの条件にかなりドンピシャ。

Reza Valiは、

西洋理論 → ペルシア音楽の原理で置換

まで逆転させた。

Reza Vali:Dastgah/Maghamから独自のPersian Polyphonyを構築

と見るとめちゃくちゃ面白いです。

しかもペルシア古典音楽にはご指摘のタハリールがある。ラディーフ自体も単なる音階集ではなく、多数のgūshehを特定の順序・旋律運動で組織する体系です。

つまりインドともトルコとも違って、

旋法+旋律型+詩的時間+タハリール+自由拍節

という非常に濃厚な母体からpolyphonyを作れる。

これは……レザ・ヴァリ、次に掘るべき人でしょうね。

ラヴィキランを発見
→ サンルコル発見
→ ペルシア・ポリフォニーのレザ・ヴァリ発見

「土着理論主導型多声音楽」という採掘軸、思ってた以上に世界中に鉱脈あります。

 

まさに対照軸がきれいに反転してますね。

シマノフスキ《狂ったムアジンの歌》は、ざっくり言えば

西洋近代音楽の和声・形式・管弦楽法 ↓ その上に 擬似マカーム的旋律、アラベスク、イスラム圏を想起させる装飾性

を載せる音楽。

つまり深層文法はあくまで西洋側です。旋律がどれだけ中東的に聞こえても、作品の組織原理そのものはシマノフスキの後期ロマン派〜印象主義的な和声世界にある。

対してレザ・ヴァリは逆で、

ダストガー/マガームの音程・旋律論 ↓ そこから 多声法・形式・西洋楽器の書法を組み立て直す

方向。

なので、

シマノフスキ =「西洋音楽がペルシア/イスラム圏を夢見る」

レザ・ヴァリ =「ペルシア音楽が西洋多声音楽を自分の文法へ取り込む」

という対になりますね。

これはかなり面白い比較です。

《狂ったムアジンの歌》での中東性は、あえて言えば表象としてのオリエント。本物のマカーム運用を再現することが目的ではなく、旋律の微妙な屈曲、増二度的な色彩、装飾的な線、官能的な反復を使って、シマノフスキ自身の音楽世界の中に「イスラム的幻想」を構築する。

一方ヴァリは、むしろ

「幻想としてのペルシア」をやめて、ペルシア音楽自身の内部規則から作品を作ろう

とする。

なので両者を並べると、

Szymanowski:Orientalism from the West
Vali:Polyphony from within Persian music

という感じ。

しかもシマノフスキはあの作品で、擬似マカーム的旋律を西洋和声で極端に官能化するのが上手いんですよね。だから偽物だから価値が低いのでは全くなく、むしろ「西洋音楽がオリエントをどう再想像したか」の最高級の例。

ヴァリはそのちょうど反対側から、

「いや、こちらの旋律体系そのものを主語にして多声化すると、こうなる」

と返してくる。

これ、二つ続けて聴くとかなり面白そうです。

《狂ったムアジンの歌》 → 西洋側から見た幻想的マカーム

Reza Vali《Calligraphy》 → ペルシア側から作った実質的なマガーム多声法

同じ「中東的な旋律」が、誰の理論体系に支配されているかで全く別の音楽になる。

今回ずっと話してきた「音色や旋律素材より、深層文法がどこにあるか」という話が、かなり鮮明に見えるペアですね。

トルコ現代音楽はサンルコルが面白そう

最有力は Mehmet Ali Sanlıkol(メフメト・アリ・サンルコル、1974–)。イスタンブール生まれのトルコ系アメリカ人で、作曲家・演奏家・研究者。New England Conservatory教授です。本人が自分の作曲法をなんと “polyphonic makam” と呼んでいます。しかも定義がほぼ今回の注文そのものです。

彼のいうPolyphonic Makamは、

マカーム固有の

微分音的intonation

音の階層関係

seyir=旋律がどのような方向・経路を進むか


を壊さずに保存したまま、

対位法
+和声運動
+大規模な形式

を可能にする作曲法。

……おるやん!!!!(゜д゜)

ラヴィキランが

Raga / Tala
↓
counterpoint & harmony

なら、サンルコルはかなり

Makam / Usul
↓
counterpoint & harmonic motion

です。

しかも重要なのは「マカーム音階を使って西洋和声を書く」じゃないこと。本人は、オスマン/トルコ音楽を西洋作品のエキゾチックな色彩として使うのではなく、まず内部論理そのものを習得するという立場を明記しています。

最初に聴くなら《Kürdilihicazkar Kanon》

https://youtu.be/7mQSbct_cBc?si=2tk6kxLjr-X1Qw3U

作曲者公式サイト自身が、

KÜRDİLİHİCAZKAR KANON
[Polyphonic Makam]

と分類しています。しかもKanon。
公式ページからYouTube演奏にも直接飛べます。

つまり今回の問い、

> 「トルコの音階に対位法を従属させた人いないかな」

 

に対して、

> マカームでカノン書いてる人がいました

 

という綺麗すぎる回答です。

続いて 《Merhaba》、《Sultaniyegah Fantezi》

https://youtu.be/3IQJaKOyWNE?si=Ni1NTxFYfaYUlfM5

も本人がPolyphonic Makamとして分類しています。さらに《Rast Fantezi》

https://youtu.be/z5cZb1iEe38?si=8Y35YcZDHe3waGw7

は、3ズルナ、クラリネット、トランペット、ホルン、トロンボーン、チューバ+オスマン打楽器という、メフテルと西洋吹奏楽/ジャズの怪物編成。これも公式からYouTubeへ行けます。

そして人物属性までラヴィキラン方向におかしい。

サンルコルはピアノ、ウード、ズルナ、ネイを演奏し、歌手でもある多楽器奏者。作曲博士で音楽学研究も行い、さらにマカームの微分音を演奏するために SANLIKOL Renaissance 17という1オクターヴ17鍵のデジタル微分音鍵盤まで開発しています。

……また演奏家+作曲家+理論家+研究者+楽器開発者かよ。

ラヴィキラン探索の直後にこれを引くの面白すぎる。

 

なおKasshiniさんの言う「9分微分音」は大筋その話で、トルコ古典音楽理論では全音を9 commaとして扱う説明が有名です。ただし単純な「1オクターヴを9等分」ではなく、標準的な理論モデルではさらに細かい53 comma/octaveの枠組みと関係し、実際のマカーム演奏のintonationは理論上の固定値より柔軟です。だからこそ「平均律で和声付けした瞬間にマカームを殺しかねない」という問題が出る。

……で、サンルコルはそこを殺さずに対位法やってます。

 

そうなんですよね。ここ、かなり文明ごとの「音楽理論の進化方向」の違いが見えて面白いです。

一点だけ歴史的に補正すると、マカーム=古代ギリシャ旋法の単純な現地進化系というより、

古代ギリシャ音楽理論
+ペルシア系の音楽実践・理論
+アラブ=イスラーム圏での数学的音楽理論
+オスマン/トルコでの実践的発達

が長期間混ざり合って成立した巨大体系、と考える方が正確です。中世イスラーム圏ではギリシャ音楽理論を継承しつつ独自に高度化しており、その後ペルシア・アラブ・トルコ諸地域で異なるマカーム体系へ展開しました。オスマン音楽とギリシャ教会音楽の間にも相互作用が確認されています。

だからあの濃厚さ・官能性も、「微分音があるから」だけではないんですよね。

マカームは単なる音階ではなく、

どの音を中心にするか
どこから始まるか
どちらへ進むか=seyir
どの音をどう装飾するか
どのように別マカームへ移るか

まで含む旋律文法。少なくともトルコのmakamは、単なるpitch collection以上の体系として機能しています。

だからSanlıkolが面白い。

西洋的に

「微分音階をコードにしました」

ではなく、

seyirその他のマカーム文法を保持したまま
→ 対旋律を置く
→ カノンを作る
→ 和声を成立させる

ですから。

これ、ラヴィキランとほとんど同じ問題設定なんですよね。

 

インドなら、

Raga / Tala

トルコなら、

Makam / Usul

という強力な共通言語を作曲家が握れる。

日本だと、

「どの日本音楽をOSにするの?」

から始まってしまう。

これは結構でかい。

だから日本の現代音楽は結果として、

日本固有の理論を多声化する より 日本固有の音色・時間感覚を現代音楽へ持ち込む

方が強くなった、と考えると腑に落ちます。

そう考えると今回の探索、

インド:ラヴィキラン
→ Raga/TalaからHarmony/Counterpointを再構成

トルコ:Sanlıkol
→ MakamからHarmony/Counterpointを再構成

という並びがものすごく面白いです。

両文明とも、西洋近代以前から自前の巨大な抽象音楽理論を持っていたから、西洋音楽を取り込んでも「こっちの理論で料理し直す」ができる。

これを世界中で探すと、かなり面白い「もう一つの現代音楽史」が作れそうです。

中国・ペルシア・アラブ圏あたりも、この条件で探したら何か出てきそうです。特に**「伝統音階・旋法を上位規則にして、西洋対位法を従属させる」縛り**で。

 

惹かれているのは「民族音楽」そのものというより、

その地域固有の高度な音楽理論を主語にした現代的多声化

なんですよね。

つまり、

西洋音楽 + 民族的な音色 ではなく、

地域固有の音楽体系 → 音階・旋法・旋律規則・リズム体系を保持
→ その規則に従属する形で和声を作る
→ その規則に従属する形で対位法を作る
→ 必要なら西洋楽器・オーケストラまで使う

という方向。

だからラヴィキランが異様に刺さったのも納得です。

インドなら、

Raga / Tala > Harmony / Counterpoint

トルコならSanlıkolの、

Makam / Usul > Harmony / Counterpoint

という主従関係。

ここで重要なのは「融合」より翻訳・再構築に近いことですね。

西洋技法を取り入れても、その結果が「平均律のコード進行+インド風旋律」になったら、たぶんそこまで面白くない。逆に、

そのラーガなら、この和音は成立するのか?
このマカームのseyirを守ったまま、第二声部をどう動かせるのか?

となった瞬間に面白くなる。

要するに、音色より生成規則を聴いている。

これは伝統音楽そのものを聴いて「理論は凄いけど、そこまで夢中にならない」という感覚とも矛盾しないんですよね。

伝統古典だと、その完成された体系の内部での精妙な運用を楽しむ。

一方このタイプの作曲家は、その体系を使って

「今まで存在しなかった構造を作る」

ので、別の刺激がある。

だからラヴィキランなら、新ラーガや72メーラカルタ全網羅も面白いけれど、決定打はやっぱりMelharmony。
Sanlıkolならマカームそのもの以上にPolyphonic Makam。

この嗜好を一言で表すなら、私は

「土着理論主導型の多声音楽」

くらいが一番しっくりきます。

あるいはもっと格好良く言えば、endogenous polyphony(内生的多声化)。外から西洋和声を被せるのでなく、その文化自身の音楽理論から多声法を内生させる。

これなら今後の探索条件もかなり明確です。

「○○国の面白い現代作曲家」より、

「○○地域の伝統音楽理論を維持したまま、独自の和声・対位法を構築した作曲家」

で探した方が、明らかに当たり率が上がりそうです。

今回ラヴィキラン→Sanlıkolと続いたことで、かなり新しい採掘軸が一本できましたね。

インドのラヴィキランが面白過ぎ

Chitravina N. Ravikiran(N・ラヴィキラン)
「インドには西洋に匹敵する理論体系があるんだから、それ自体から新しい作曲理論を作れるはず」という問いなら、この人がど真ん中です。 彼が提唱した Melharmony は、ラーガの旋律文法を壊さず、その規則から和声・声部進行を導こうとする体系です。
さらに面白いことに、作曲家・理論家Robert Morrisとの共同研究が Music Theory Spectrum に論文として載っています。つまり単なる「インド+西洋フュージョン」ではなく、ラーガの許容される音進行から垂直構造をどう生成するかという作曲理論として検討されています。
これはかなりヤバいです。西洋の機能和声をラーガに被せるのとは思想が正反対で、「旋律体系を公理として和声を従属的に生成する」。理論好きなら一度掘る価値があります。

 

特に RavikiranのMelharmonyは、かなり重要な発見だと思います(゜д゜)
「ラーガを西洋和声化する」のではなく、
ラーガの旋律文法 → 対位法/声部進行 → 垂直和音
という向きなんですよ。
これ、発想としてはかなり「理論体系と作曲技法の接続」の問題で、インド音楽を単なる異国的素材として扱うのとは完全に別物です。

 

https://youtu.be/CT_hvzJU5Qs?si=pju5OWvHiwxjgIK0

 

ですですwwww まさにこの辺です(゜д゜)

リンク先はラヴィキラン作曲の 《A Mouthful of Universe》、Apollo Chamber Playersによる2017年の演奏で、Melharmonyを実作として聴くにはかなり良い入口です。

しかも公式のMelharmony資料を見ると、この作品は弦楽オーケストラ/弦楽五重奏のための作品で、着想源として

J.S.バッハ + Oottukkadu Venkata Kavi + ホルスト

が明記されています。

この取り合わせだけでも草なんですがwww、もっと重要なのがMelharmonyの定義です。ラヴィキラン自身の教材では、はっきり

harmony with melodic rules

という発想を掲げています。さらに学習項目として、

「possible chords(可能な和音)」と「appropriate chords(旋律規則から見て適切な和音)」を区別する

と説明しています。

これ、かなり重要です。

普通の「インド音楽+西洋和声」なら、

ラーガ
↓
西洋的コードを付ける

となりがち。

ラヴィキランの場合はむしろ、

ラーガの規則
↓
許容される旋律進行
↓
複数声部を同時進行させる
↓
その結果として成立する和音

なんですよね。

つまり和声が上位概念じゃない。

ラーガという旋律文法が憲法で、和声はその憲法下で働く行政機関みたいなものですwww

しかも公式教材には、Melharmonyで扱う技法として triadic harmony、ostinato、imitation まで挙げられています。

ここが個人的に非常に面白い。

「インド音楽だから単旋律+ドローン」というところで止めず、

ラーガの同一性を保ったまま模倣対位法まで可能なのか?

というところへ踏み込んでいる。

さらにリズム側もターラをそのまま持ってきていて、Melharmonyの教材ではカルナータカ音楽の 3・4・5・7・9分割のgati/nadai や、7拍を3+2+2に分割するMishra Chapuなどまで作曲資源として扱っています。

なので理論的には、

Raga → pitch organization / melodic grammar
Tala → temporal organization
Western counterpoint & harmony → polyphonic realization

という三層構造が作れる。

これ、相当に強力な作曲体系です。

そして《A Mouthful of Universe》がバッハに着想を得ているというところが、ますます面白いwww

バッハ的な複数声部の自律性を、

「ではラーガという別系統の高度な旋律文法の中でやったらどうなる?」

という問題に変換できるわけです。

これなら確かに「西洋和声をインド音楽に導入」ではありません。

むしろ

西洋のポリフォニー技術を、インド音楽理論の法体系に帰化させる

に近い。

最高にインドですwwwwww

しかもラヴィキラン、これを単なる個人的作風にせず、作曲教育として「旋律中心体系と和声中心体系の違い」「ラーガ」「適切な和音」「模倣」「オスティナート」「ターラ」を順番に教える体系にしているんですよね。

これはかなり掘る価値あります。

タネーエフとは出発点が正反対なのに、最終的に「複数の独立した音楽的規則をどう同時成立させるか」という同じ問題へ来ているのが、Kasshiniさんにはたぶん一番刺さるところだと思います(゜д゜)

ラヴィキラン、思っていた以上に「面白そうな人」ではなくて、作曲理論そのものを読むべき人っぽいです。

 

そこでラヴィキランを見ると、「インド音楽に西洋の和声を足しました」程度で終わるはずがないんですよねwww

カルナータカ音楽だけでも、ラーガが「音階」ではなく許容される音程関係・進行・装飾・重心を含む生成規則に近く、ターラ側では周期・部分分割・置換・異なる subdivision の重ね合わせまで扱う。そこにMelharmonyで、

旋律規則を保存する → 複数声部化する → 垂直結果を制御する

とやるので、発想がかなり組合せ論的なんですよね。

だからタネーエフと妙に近く聴こえるのも納得できます。

タネーエフなら
主題 → 対位法的可能性を網羅 → 転回・反行・ストレッタ等を検証 → 形式へ統合

ラヴィキランなら
ラーガ → 許容される旋律関係を保持 → 多声化可能性を探索 → Melharmonyとして統合

で、文化圏も語法も全然違うのに、

先に規則体系を尊重し、その規則から可能な音楽空間を導出する

という作曲者の思考姿勢が近い。

ここがかなりデカいと思います(゜д゜)

インドでは

むしろ、

高度に形式化された規則
+即興
+情感(rasa)

が普通に共存する。

これ、タネーエフにも通じるところありますねwww
タネーエフも「対位法の数学者」みたいに言われがちなのに、実際に聴けば《ピアノ五重奏曲》や《オレステーヤ》なんて情動火力がおかしい。

だからラヴィキランを聴いて、

「あ、数学的構造と情感を対立させないタイプだ」

となると、一気に距離が縮まる。

さらにインドの場合、西洋の「調性→無調→セリー」という歴史を経由せずに、何千年級の別系統の高度な音組織から現代的多声法へ進めるわけです。

これが本当に面白い((((;゚Д゚))))

「現代音楽史」を欧米中心で見ると完全に別館扱いなのに、理論史として見たらむしろ巨大な別ルートが横に存在している、という感じですね。

 

今回のラヴィキランみたいな人を見ると、インドの凄さって「古典体系が高度」だけじゃなくて、その体系を現代でも拡張可能な生きた理論として扱えているところなんですよね。

ラーガとターラが博物館化していない。そこから多声法や和声を導出して、しかも西洋側の技法を吸収しても主従関係を逆転させない。

西洋技法を取り込むけど、最終的な法体系はインド側。

この強さ、ほんとインドらしいですwww
「西洋化=近代化」にならず、自前の巨大理論体系で近代・現代を呑み込む。

こういう作曲家を掘ると、現代音楽史そのものがかなり違って見えてきますね(゜д゜)

 

実際、ラヴィキランは2歳台ですでにラーガやターラを識別していた神童として知られ、のちに演奏家としてだけでなく作曲家・理論家としてMelharmonyまで体系化しています。公式サイトでは1000曲超の作曲実績も掲げています。

なので「インドのモーツァルト」は単なる“早熟な天才”という比喩以上に、

幼少期の異常な吸収力
→ 古典体系を徹底的に身体化
→ 演奏家として成熟
→ さらに作曲・理論へ拡張

という軌跡まで含めると、かなりハマります。

そして面白いのが、実は海外でもすでに “Mozart of Indian Music” と紹介された例があることですwww

ただ、ラヴィキランの「努力型」という部分はむしろモーツァルト以上に強く感じます。神童性だけで終わらず、カルナータカ音楽の既存体系を極めたあと、そこから西洋和声・対位法を勉強して、新しい理論体系を作るところまで行っている。

しかもMelharmonyは単なる個人芸ではなく、Robert Morrisが理論研究の対象にして Music Theory Spectrum で論文化しています。

だから、

神童 → 超一流演奏家 → 多作な作曲家 → 理論家

まで全部乗せ。

これは確かに
「インドのモーツァルト、ただし理論家属性をかなり盛った版」
くらいありますwww

むしろ後半生まで含めると、モーツァルト+タネーエフをインド古典音楽OSで動かしたような変な怪物になってます((((;゚Д゚))))