疲労、SOS

昨日は、とにかく疲れた。睡眠時間は、5時間以上、6時間未満。睡眠のコントロールに失敗してこの時間はままあることだし、気にしない。
私が、SNS、といってもお邪魔したブログのログを見れば気付いてしまうかもしれないと、個人的には思っている。
やり取りそのものは、寝る前の数時間の時間に当たる。
各々見えている世界の違い、これだけであれば、まだよかったと思う。お互い、それを認識できていると言う前提であったと思う。
何だろう、この自覚と他覚の間にある、目には決して見えることのない、高く大きく分厚い壁は。
何も言葉が出ない。すべてを言いきっても良かったのかもしれない。しかし、その結果は、目に見えている。それは、平行線で終わること。かつ、それは非生産的であり、時間の無駄でしかないと言うこと。そして、それは、まさにお互いにとって、最も不幸なシナリオである、絶縁、決裂に至るように思えた。
私が、基本的に恐れていることは、そうした流れが、その板、ブログと言ったコミュニティの質を大きく下げることだからである。

創価王道 用心すべきネット社会
この記事を書いた人物は、今や著名なネットにおける内部アンチの筆頭であると思う。その上で、ここに書かれていることは、今でも実際にその通りであると思う。あえて、斧節にしていないのは、その頃のブログの名前が創価王道であり、そのブログタイトルに寸分違いのない内容であるから。

抜き書きしていくと

学会員同士が小競り合いを始め、信心の強い人が、相手に不信を抱かせないために身を引くというものだ。

ネットの危険性として「スピード」が挙げられる。例えば、自分に対する誤解や中傷があったとしても、これが手紙であれば、紙を用意し、ペンを執るまでに、心が冷静になる。だがネットの場合、瞬時に反論が可能となる。ここにネットでのやり取りが激しやすくなる罠があるのだ。

 学会員を名乗ってはいるものの、どの程度の信心なのかは誰にもわからない。同じ学会員という立場でやり取りしていても、書くことが苦手な一級の活動家と、文章がそれなりに書ける未活動のメンバーというケースもある。

 ところが文字情報だと、何とはなしに文章の上手い方が説得力があり、信心があるように見えてしまうから不思議だ。

ネットの危険性として「スピード」が挙げられる。例えば、自分に対する誤解や中傷があったとしても、これが手紙であれば、紙を用意し、ペンを執るまでに、心が冷静になる。だがネットの場合、瞬時に反論が可能となる。ここにネットでのやり取りが激しやすくなる罠があるのだ。

 学会員を名乗ってはいるものの、どの程度の信心なのかは誰にもわからない。同じ学会員という立場でやり取りしていても、書くことが苦手な一級の活動家と、文章がそれなりに書ける未活動のメンバーというケースもある。

 ところが文字情報だと、何とはなしに文章の上手い方が説得力があり、信心があるように見えてしまうから不思議だ。

学会員はとにかく人がいいから騙されやすい。心のスキを見せれば、自分が傷つく結果となることを戒め合いたい。また、自分の意見に対して素早い反応があるために、極度のネット依存となるケースも見受けられる。こうなると自我が極端に肥大化してゆき、生活とはかけ離れた言葉遊びとなってゆく。

 最低限、以下の現実をわきまえておきたい。
学会本部自体がさほどネットに力を注いでいないということ。
活動家は多忙なため、ネットに費やす時間が乏しい、あるいは全くないということ。
くそアンチどもの言論には、社会に対する影響力が殆どないこと。
学会員、あるいは元学会員を騙(かた)った日顕宗信徒や共産党員が多数、存在すること。
ネット人口においては、現実社会を上回る割合の鬱病・引きこもりがうようよしていること。
まともに活動してないネット活動家がいること。
 初心者だと、ネットサーフィンをしながら、歯ぎしりするようなことも多いだろう。だが、現実の世界で1mmでも広宣流布を推進する人が、真の学会健児だ。

 ネットは情報交換という程度にしておくべきである。ネットは所詮、ネットに過ぎないからだ。但し、ネットで知り得たかけがえのない同志も数名いることを申し添えておく。

用心すべきネット社会 - 創価王道

この原点に立ち返るべきと改めて思った。

この差を埋めるに辺り、11月までは、距離を置こうと言うことである。
昨日の夜は、仕事中、頭の中で、そんなことがエンドレスループしていた。結果どうなったか。作業、ひいては日常生活に支障をきたすくらいパフォーマンスが落ちていたことに、最初の2時間で気付いた。相方には、そうした実態は書けないが、「ごめん」と言いたい思いでいる。数か月間、スランプに陥っている影響もあるのだけど。
ここまで、生活に響くのは、内部アンチと火花を散らした2008年9月頃から、ニートになり始めた頃に当たる2009年4月以来だと思う。
何もできない歯がゆさ。でも、実際に立ち会って、何ができると言えば、抱いてウンウンうなづく以外何もできない。
書いていて、鬱状態と隣り合わせにある自分自身がいることも気づいている。
今、自分が感じとっているものを押し込めたら、そのまま鬱症状と不眠症になって出てくるので、後程、今回こちらの独断と偏見で、2人の方にはSOSの私信が届くかと思います。何、こんな外野が悩んでもしょうがないことで悩んでんねんと思うかもしれませんが、届いた方には、大変恐れ入りますが、宜しくお願い申し上げます。


この世界で、粘着魔とも言われている人物が、私のコメントだけが残っているリンクをつけているので、なんともはやである。10月に入り完全削除を確認したのだけれど、あの言葉は、当事者に向けての言葉であるから。

P.S.この記事を書いた夜に気付いたのだけど、明らかにこちらを指しているなと言う言葉を読んで気づいたこと。その方が書けば書くほど心がヒンヤリする自分がいた。これから11月までその点において試みようと考えていることは、まさにその方に対して隠者であろうということ。私は、怒に対して極端に、パニックに陥ったり、思考停止したり、委縮したりする。その淵源は、相手を怒らせて、決裂に知ったことが非常に多く、修復できたことはなかった、ということに起因すると思う。18の夏に当時好きになった方を傷付けてしまった時のこと。これは、その方の尊敬が不信に変わった時の怒りが、生来持っている衝動性で、コントロールできなくなって起きたこと。だから、常日頃、アサ―ティヴであるべきだと考えているし、ケン・ウィルバーが述べている感じ取っていることを、3人称から2人称へ、2人称から1人称に置き換えることに通じると思うのだ。また、怒鳴り散らされれば、怒鳴り散らされるほど、心身ガチガチになって、動けない。相手を不愉快にさせて、悪循環と言ったことも、仕事廃人のときにあった。怒れば怒るほど、さらに怒らせることしか私にはできなかったと言う過去がある為に、意見を主張する際に、怒を出すことに、私は、懐疑的である。怒以上に、相手の心を揺り動かすアプローチがあるはずだと考えてしまう。故に、平行線になってしまう。私自身が、拒絶反応を示していたりする。よって、ここに、その件に関して1ヶ月の冷却期間を設けようと思う。

最終的には、柾 ‏@masaki_ndさんが、Twitterでつぶやいたこの言葉に行きつくのではないかと思う。

指導を受けた。議論はお互いの価値観が違えば最後は平行線をたどること。「平行線」を確認したら素直に呵々大笑して、あとは「人間力」の勝負ですねと状況を受容すること。枝葉にこだわる議論は余り生産性がないということ等指摘あり。その判断を行う能力がまだ未熟であることを恥じる。

リンクの貼り方がわからないため、こういう形で。これは、2013年9月4日のつぶやき。余談ながらクリシュナムルティに対する考え方等、興味深かったので、Twitterをみている方はどうぞ。