ネットでの発信

創価王道で興味深い文を拝見致しました。


誰に向かって発信するか


私が、はてなスターをつけた箇所は、

ネットで何らかの情報発信をする場合、対告衆(たいごうしゅ)を定めるべきだ。
同志に対してメッセージを送る場合は、やはり研鑚の積み重ねを公開すべきだろう。日常の活動というものは、よほどの感受性や文章力がなければ陳腐なものとなってしまう。
学会員の最大の問題は「思想的格闘のなさ」にある。それゆえ、言葉に深みがない。


発信する相手を学会員にしてしまうと、その他大勢の国民はシャットアウトされることになる。
すると、不特定多数の読者に対して発信する場合、やはり趣味や仕事をベースとした文章になってくる。これが実は、折伏の力となる。


「ものの見方」で勝負するのだ。「境涯によって世界は変わる」ことを証明する作業だ。人の心を動かすことは難しい。そして、自分の心を動かすことはもっと難しい。その困難に挑む自分自身の軌跡を、記録として残すべきだ。

以前、Blogでの発信について思索学会系BBS・blogのあり方で書いたことよりも、ここでは遙かに高いレベルの言及がなされております。
研鑚の積み重ね、これは、ぶろぐを立ち上げてから、とぎれる時期があってもずっと心がけていたことです。
日常の活動の発信については、ありきたりになりがちです。私自身がそうであると考えております。その点は、創価の森の小さな家がとても素晴らしいです。こうしたブログは、どうかと提案を頂いたこともございます。今の私は、浅学のものであり、ここまで書ける者はございません。というわけで、触発を受けながら、思索をメインにしたものの発信を心がけております。ただ、発信している対象が、中途半端であることは否定し得ません。その点は、より思索して参りたい。


こうして、書き綴る中で思い知らされること。それは、やはり、言葉に深みがないことです。
グーグルページランク4を獲得しているブログで、仕事をベースとした文章はいくつかございます。
脳挫傷による見えない障害と闘いながら・・・
一部著作権的にどうということと、心に残った体験を書かれた時に書き込みと毎日ポチしているにも関わらず、同じコメントが来るため、申し訳ございませんがコメント不可にしております。ということが、玉に傷ながら、体験から共感の輪を広げられているようです。そのこと自体は、純粋にとても素晴らしい。他、学会員ということは、一切言われずに、写真ブログをされている方、障害を持った方を育てている方がブログを手がけていることも存じ上げております。
このブログでは、趣味(クラシック)でありかたに言及した際、ページビューが900-1000以上言っていた日がございました。芸術、特にクラシック音楽の記事が数多く書いた理由は、作品の紹介をする中で、一流の芸術とは何か、仏法との共通点を思索するためでした。ほぼ終盤を向かえております。


ここで「思想的格闘のなさ」についてリンクが貼られており、具体的に言及されておりました。
その中で、はてなスターをつけた箇所は、

現証優先という価値観が思考停止状態を生んでいる。組織内にはびこる盲信の類いは目に余るほどだ。このような「組織文化」によって、信心よりも活動に重きを置く指導性がまかり通るようになったのだ。そして、功徳は経済的成功に成り下がった。


「組織の構成員であることをやめて、一人の弟子として決然と立ち上がれ」


クローズドスタンスから、ややオープンスタンスに変更

ここで、言及されていることは、今の現状や矛盾に対して、信心の眼から、先生の御指導・御書講義を紐解き、ただ結果を出せばいいではなく(もちろん最終的に結果を出すことを目指しながら)、考え抜いていくことを述べられております。そういえば、ここまで徹底して悩み考え抜いたことはないことに気づかされます。毎日、思索をし抜いて参りたい。実際には、ラインの仲間と組み、活動する中で、孤独でも、決然と立ち上がれる力と勇気を持って行こう。


「境涯によって世界は変わる」についてリンクが貼られており、具体的に言及されておりました。
ポイントは、

自分を取り巻く環境は様々な色に変化する。


若い時分は、理想に燃えているが故に、ともすると不平不満の奴隷になるケースが多い。自分が懸命になればなるほど、歯がゆい思いに駆られがちだ。職場においても、組織においても同様だろう。


周囲への文句が頭をもたげてきたその時こそ、自身の壁が見えてきた位置でもある。理想的ではないからこそ、今、自分がここにいるのだ。こう確信して、人生のあらゆる舞台で名優と輝きたい。


境涯によって世界は変わる

そう、立ち向かえば立ち向かうほど、矛盾を感じることもあることと思います。私自身が、その塊のような者です。ここで、1番大事な事は、矛盾の原因を原因を突き止め、乗り越えていくことにあると思います。そのためにも、祈り、行動して、鍛えていく。まっとうな指摘であっても、それが愚痴ならば急降下。今まで築きあげてきたものも、破壊されてしまいます。逆に、結果を出せば、御書と先生の御指導に基づかないことを行っていいわけではもちろんございません。それでは、退転者と何ら代わりません。


そうしたことを、踏まえながら、成長してゆきたい。



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