総仕上げ 2010年に向かってなすべきことは?

2010年 - 創価王道
上のリンクは、熟読されることを、おすすめ致します。

私の心に突き刺さった言葉は、

「80歳になる師匠を戦わせてしまう弟子って一体どんな存在なのだ?」と。「いつまで経っても、先生からの激励がなければ戦えない弟子って何なのさ」と。


 もはや、「創価学会の池田先生」ではなく「世界の池田先生」である。我々学会員は、いつまでも先生に甘えるのは間違っていると私は主張したい。

この疑問は、ラインでも、学生部OBである兄と、学会のこれからはという話になった時に、度々出てきた話です。

池田先生は、明日のお誕生日である1月2日で81歳です。

私自身が人間不信であった時に、池田先生の激励を頂き、蘇生した人間です。その事は、私の原点1に書きました。その時から、私の中での池田先生は、心の命の恩人であり、師匠であります。明言出来る解答はまだありませんが、池田先生にご安心される闘いを弟子がしていくという一言に尽きると私は考えます。

折伏精神とは闘争心の異名だ。戦う気概のない幹部が、学会の前進を阻んでいる。単なるスポークスマンやアナウンサーは不要だ。


信心とは立場でもなければ、キャリアでもない。闘魂をたぎらせて、師弟共戦の最終章に望みたい。今、千載一遇の時を向かえていることを忘れてはならない。

私は、人1倍闘争心が欠けている人間であるといえます。なぜならば、生来のんびり屋であり、天然ボケの気があり、ボケ〜ッとしている人間だからです。これは、長所としては、相手の肩の力を抜く力になりうるものかも知れません。しかし、いざというときに闘えない者は、夢や理想をつかみ取ることはし難い、護りたいものを護れないものともいえます。ですので、TPOを使い分けて、ここぞという時の闘争心は1倍つけます。

ともあれ、学会は「率直」でいくことだ。

 変に気取ったり、格好つけたり、そんなことをする必要はない。

 お互いに、言いたいことは、はっきりと言っていく。これが大事である。

 そうして、皆の英知を集めていくのである。


【全国代表協議会 2006-01-27 創価文化会館】

人口が減少しつつある今、大事なことは「内部をしっかりと仕上げる」ことだ。今、デタラメな成果を出しているところは、必ず数年後にはツケとなって返ってくる。支部長以上の役職を担っている人であれば、「せめて一年間に一人は育てなさいよ」と言っておきたい。そんなことすら出来ない幹部は邪魔でしようがない。昔、戦ったから、幹部になったのだろうが、今、何もしてないのが多過ぎる。


先生からこれだけの指導を受けている現在、昨日までと同じ戦いをしていれば、それは謗法である。「変わってない」という現実が、既に堕落している証拠なのだ。

ここまで、言葉がきついと、箴言のようにも読めます。
私が、全く出来ていない点をついた言葉であります。
この言葉を、真摯に受け止めて、これからの行動に生かして参ります。

創価ルネサンスが、人間復権であり、人間復興であるならば、現実に「一人ひとりが主役」という組織をつくり上げるしかない。そのためには徹底した家庭指導をするしかない。同志の絆を強靭なものとして、初めて広宣流布は進むことを銘記したい。

これも、私が出来ていない点の1つであります。

創立75周年記念 本部・海外最高協議会
【2005-11-11 信濃文化センター】


11月11日に行われたこのスピーチ(聖教新聞 11月15〜16日付)が、今後、10年の指針である。この指導を一切の原動力にしながら、指導通りの自分と組織を築いて参りたい。読む度に、闘争心が掻(か)き立てられ、じっとしていることができなくなる。

 恩師の戸田先生はよく言われていた。

「私は、学会員が幸福になればいいのだ。我が同志の幸福こそ、私の願いである」と。

 私も師匠と「同じ心」で生きてきた。

“仏子”を、成果のための手段にするな。自分の役職の都合でものを言うな。


内にあっても、外にあっても言論勇者たれ。一方でしか通用しないのは、偏頗(へんぱ)な証拠。仏とは全体人間の異名。満月の如く欠けるところがなく、円融円満な人格の持ち主。

「指導の達人」「激励の名人」であっていただきたい。

“会合の連絡屋”になるな。それすらしてないのが多いけど(笑)。

 真心と誠意のこもった「ほめ言葉」をかけてゆくところに、喜びの波動が広がる。

 一人を折伏し、一人を育てる苦労を知れば、同志に対する感謝の念が湧いてくるのは当然だ。ほめるのは技術に非ず。

 今日一日、何人の人に温かな声をかけ、ほめることができるか。

 ここに指導者の重要な使命がある、と強調しておきたい。

 さあ、今日から皆で競争だ!


「学会がここまできたのも、真剣な御書講義と研鑚があったからだ。教学が広布の根源である。だからこそ、全魂を教学に傾けてきたのだ」

創価学会の使命は、広宣流布の推進にある。

そのためには、教学の振興が大事である」

先生は、幹部にも常々、こう語られていた。

「疲れ切った時にこそ、御書を拝読していけ! たとえ1行でも2行でもよい。御書を拝して、自らの境涯をもう一歩、開くのだ!」

 折伏によって成長し、功徳を受けるのは、折伏をやった本人だけだ。結果は出ても人が育ってない組織は、予想以上に多い。人材育成の基本は教学だと思う。

 私は若き日に、大聖人の「不惜身命」「忍難弘通」の大闘争を学び、我が生命に刻みつけた。

 そして、広宣流布の大願に生涯を捧げ、師匠である戸田先生を守り抜くことを心に誓ったのである。

「一切の魔の働きから、どうすれば師匠を守ることができるか」「どうすれば学会を守れるか」。そして、「どうすれば広宣流布を進めることができるか」――私は、ここに一念を定めた。そして真剣に、具体的に祈った。

 祈りは具体的でなければならない。現実をどう変えるかという「具体性」がなければ、祈りは空転してしまうからだ。

“感情だけ”、“観念だけ”、“気持ちだけ”、“口先だけ”の師弟に対する破折。「私はこうだった。君は、どうなんだ?」との厳しい問いかけだ。それは、“祈りの中身”に対してまでなされている。本当に厳しい。だがそれは、大いなる期待の表れである。

この箴言を真摯に受け止めることから、今年は、出発して参ります。



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