返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給うべし、釈尊は一切衆生の本従の師にて而も主親の徳を備え給う、此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆らう道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候
建治2年、日蓮大聖人が身延の地から、下総の曾谷殿に送られたお手紙です。
本抄の前半では、南無妙法蓮華経こそが成仏の要となる法であることを明かされ、南無妙法蓮華経を弘めている日蓮大聖人こそが末法の師匠たる存在であることを述べられ、後半では、末法の僧等は、仏法の道理を知らず、慢心であり、法華経を誹謗する者であると指摘され、法華経の敵を見ながら責めなければ、無間地獄は疑いない、また、謗法を責めずして成仏を願っても成仏は叶わないと厳しく談じられております。
続いて、従うべき師匠を決して誤ってはならないと戒められ、「いまだこりず候」と、命に及ぶ大難にも決して屈することはない民衆救済の御決意を示されます。
池田名誉会長の言葉より。
「仏法は勝負だ。勝たねばならない。悔いなき人生を歩んでいただきたい。絶対に勝っていただきたい。そのために、師弟があるのだ。見栄とか飾りのためではない。仏法の師弟に生き抜く人生ほど、強いものはないのである」
「最も深い人生とは、師と共に理想に生き抜く人生です。その理想が偉大であればあるほど、師弟一筋に生き抜く生涯は、永遠の価値に輝きます」(2008.8「大白蓮華」、「希望の経典『御書』に学ぶ」)
「大聖人に直結して、不惜身命で広宣流布を進めゆく師匠の存在が大事なのだ。創価の師弟が重要なのである。(2008.5.27.新時代第18回本部幹部会でのスピーチ)
「伸一にとって、怠惰や妥協は、自身の敗北であるばかりでなく、師匠を悲しませることであり、裏切りでもあった。
師弟とは、形式ではない。常に心に師があってこそ、本当の師弟である。心に師がいてこそ、人間としての「自律」があり、また、真の「自立」がるのだ。(2008.11.21付け、小説『新・人間革命』「新世紀」の章)
賢く「敵」を見破り、戦い続けるなかで、成仏ができます。魔は紛然と来るのですから、見破っていかなくてはなりません。成仏とは戦い続ける人の異名です。
ここで、池田先生のスピーチを引きます。
「法華経の敵を見ながら、放置して責めなければ、師匠も弟子もともに無間地獄に堕ちることは疑いない」(御書P1056、通解)
"弟子よ、広宣流布の敵とは断固戦え"との厳命であられる。厳しい御言葉であるが、まったく仰せの通りだ。
そして、広宣流布の敵とは、外だけにいるのではない。
いかなる組織も、大きくなり、根幹の精神を忘れると、いつしか、冷たい官僚主義、事なかれ主義がはびこっていく。要領よく、戦っている格好だけ見せる。派閥をつくって気に入らない人間をいじめる。陰でこそこそ悪事を働く ― そういう人間が、のさばりだすものである。
少しでもこうした兆候があれば、それは、広布を破壊する魔の働きであると、鋭く見破っていかなければならない。幹部になるほど、十分に戒めていくべきである。
【全国合同協議会での名誉会長のスピーチ 2006年11月22日】