御書と師弟 第13回 日蓮が一門

御聖訓


願わくは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ
過去遠遠より已来日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕せ
師子は値がたかるべし
(閻浮提御書、P1589)

【2009.4.33&24 聖教新聞、以下同】


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あるとき、戸田城聖先生は学生たちに語られました。
「一緒に仏法の真の探求者になるというのならば、私の本当の弟子になれ!よそから来て聴いているような態度では、実によくない。
師匠の教えを、まっすぐに実行してこそ真の弟子です。

最近の先生のご指導は、真っ直ぐに信心を貫くことを、何度も仰っています。
純粋に貫いて参りたい。

大聖人門下の精神

「師子王」とは仏のことです。大聖人御自身の王者の御境涯を表現されています。
師匠は「師子王」である。ゆえに弟子たちも「師子王の子」となって戦え!群れなす狐らなどに、断じて笑われてはならぬ、との御遺誡であります。群れなす狐とは、ずる賢く正法を妬み誹謗し、広宣流布を阻もうとする者たちです。
(中略)
戸田先生は言われました。
「大聖人の一門は師子王の子だ。師子王の子であるならば、鍛えれば鍛えるほど、たくましくなる」
そのためには、どんな小さな事でも、油断せず、一つ一つ勝ち切っていくことが大事です。

油断を排しての行動こそ常勝不敗になる秘訣!!

師と共に 師の如く

第一に、「日蓮がごとく」すなわち「師弟不二」の信心である。大聖人の広宣流布の御闘争に連なり、妙法を唱えに唱え、弘めに弘め抜く姿勢です。

どこまでも、先生と呼吸を合わせて参りたい。

全生命を捧げて!

第二に、「身命をすてて」つまり「不惜身命」の勇気です。
正法のために、命を惜しまず戦い抜く決然たる覚悟こそ、真正の弟子の証です。

すべてに、全力で戦う中にこそ、成長と勝利があります。師と呼吸を合わせるためにも、全力で行動を!!

世の深層に潜む敵

第三に、「強敵の科を顕せ」とは「破邪顕正」の闘争です。仏法と民衆の怨敵に対して、敢然と破折する言論闘争です。
広宣流布を妨げる、いかなる悪も断じて放置しない。「まぎらはしくば実教より之を責む可し」(同P503)とも仰せです。この勇気ある破邪顕正の戦いによってこそ、真実の味方が広がっていくのです。このたゆみなき進歩と前進なくして、立正安国はできません。

破邪顕正といっても破邪からだとのご指導が、2年前の5月8日(後日取り上げる予定)に埼玉でありましたが、破折をし、魔を断ち切る中にしか、正義の宣揚はありません。勇気を持って対話をして参りたい。

不思議なる宿縁

第四に、「師子はあたいいがたかるべし」。これは「報恩感謝」への指標と拝されます。
「師子」とは、すなわち日蓮大聖人の御事にほかなりません。
何ものにも負けない。何ものにも勝ち越えていく師子王の真髄の境地を、全人類に示して下さったのが大聖人であられます。
(中略)
偉大な師匠と同じ時代に生まれ、同じ理想を目指し、同じ祈りで邁進しゆく人生ほど、素晴らしいものはない。ありがたいものはありません。私は、戸田先生にめぐり会い、心か等そう感じました。

報恩感謝の祈りを忘れずに。人は苦しい時ほど、忘れがち。普段から戒めて参りたい。

弟子の「聞法下種」

この大聖人の御名を語り広げることは、そのまま南無妙法蓮華経の大白法を広げる「聞法下種」の拡大となる。師匠の名を叫びきっていくことこそ、弟子の誉れある闘争なのです。
(中略)
反対に、師匠の名を叫び切れない弱い姿は、弟子としての敗北です。いな、師弟の魂を失った姿です。
(中略)
どこまでも師匠を求め抜き、師匠の名を叫び、師匠の真実を訴え抜いていく以外に、仏法正義の命脈を広げゆくことはできない。
師匠に打ち込んでいただいた折伏精神を失い、世間に迎合して、広宣流布の和合を破壊するような五老僧の末流とは、断固として戦い抜くのです。

師の名を叫んでいても、矛盾することを言う方も時折拝見致します。そうした発言に対しても、おかしい点を、きちんと語りましょう。そして、破和合僧には、決然と語りましょう。その中にこそ、言論戦があります。


先生のスピーチが、ますます遺言のように感じるこの頃。一日一日前進して参りたい。



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