池田名誉会長講義 御書と師弟 第11回 抜苦与楽の英雄

御聖訓

日蓮云わく一切衆生の同一苦は 悉くこれ日蓮の苦と申すべし(諫暁八幡抄P587)

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「我らが信心をなす目的は、永遠の生命の中に、幸福に生きんがためである」

ある時、先生は、こう語られました
「この大宇宙の運行それ自体が、慈悲の行そのものである。我らが折伏を行ずるは、慈悲の行である。慈悲の行は、仏の仕事であり、真に尊いことである。何となれば、自己が永遠の幸福をつかむと同時に、他の貧窮の衆生にも、その幸福を分かち合おうとするのである唐、これ以上尊い仕事はない」
生老病死の苦悩に沈む友に、妙法の世界を指し示して導き行く信念の対話は、最高に尊い「慈悲の行」であります。
御本仏・日蓮大聖人のお遣いとして、声の力で「仏事(仏の仕事)」を行う尊極の振る舞いです。

貪・瞋・癡への挑戦

大聖人は「諫暁八幡抄」で、「涅槃経に云わく『一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり』等云々、日蓮云わく一切衆生の同一苦は悉く日蓮一人の苦と申すべし(御書P587)」と仰せです。
ここで引かれてた涅槃経の文は、苦悩を受けている人々を見て、我が事として苦悩する如来(仏)の慈悲の大いなる力を讃えた一説です。
「一切衆生異の苦」とは、人々が受ける種々の異なった苦しみのことです。仏は、全て自身の問題として背負い、その解決を願われたのです。
これを踏まえつつ、大聖人はあえて「同一苦」と仰せになられました。これは、一切衆生の様々な苦悩が、同一の原因によって起こることを明快に示され、その一切を担い立たれた大宣言と拝されます。
末法の人々が等しく苦しむ「同一苦」とは、謗法による本源的な苦しみのことです。
貪(貪り)・瞋(瞋り)・癡(癡か)という生命の「三毒」が盛んになる末法にあって、この「同一苦」に立ち向かい、自他共の幸福の道を開く実践が、我らの折伏行です。
大聖人は仰せであります。
「飢渇は大貪よりをこり、やくびやうは・ぐちよりをこり・合戦は愼恚よりをこる、今日本国の人人四十九億九万四千八百二十八人の男女人人ことなれどもも同じく一つの三毒なり」(同P1064)
人間生命と社会現象の深き関連性を、ダイナミックに把握された御文です。飢饉や疫病や戦争は、「三毒」が強盛んなゆえに起きるのだと喝破されています。
人間の歴史は、一次元から見れば、この「三毒」によって憎しみ合い、傷つけ合ってきた業因・業果の流転の劇であったと言わざるを得ません。
この悲劇に終止符を打ち、地球に平和と共生の楽土としゆくためには、「生命」そのものを変革する大哲理が絶対に不可欠です。それこそが、私たちの唱える南無妙法蓮華経の大白法なのであります。

偉大な歴史は、常に偉大な一人から創られます。そして、その一人に続く不二の弟子によって受け継がれ、広がっていくのです。
「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」この小説『人間革命』の主題も、大聖人の御聖訓を現代に実践しゆく師弟の誓願にほかなりません。

"安同情"ではない

そもそも、仏の「慈悲」とは何か、
大智度論」では一切衆生に楽を与えること(=与楽)が「慈」であり、一切衆生の苦を抜くこと(=抜苦)が「悲」であるとされています。

"同苦"とは"同情"ではありません。苦しみを乗り越えるには、その人自身が生命の底力を湧き起こして、自ら強く立ち上がる以外ない。
戸田先生は語っておられました。
「かわいそうだ、だけでは、人は救えませんぞ。信心の指導、励ましのできるリーダーになりなさい。言うべきことはきちっと指導し、御本尊と共に祈っていくことです」
仏法で説く真の慈悲は、感傷や安同情とは無縁です。それは結局、人生の勝利に価値を生まない。根本の「同一苦」を破れず、抜苦与楽になりません。
先生は「慈悲があるということは、即智慧につながっていく。その人のためにどうして上げたらいいか。その慈悲から、一つ一つ具体的な智慧が生まれる」とも教えてくださった。
仏法は勝負です。人生も社会も勝負である。大聖人は、門下が仏の力を奮い起こして、断じて幸福を勝ち取るよう、厳愛をもって励まされたのです。

師弟が生む大感情

仏の慈悲とは、人々の魂を揺さぶり、"絶対勝利の生命"を湧き現させずにはおかない、燃え上がる大感情と言ってよい。

「大悲とは母の子を思う慈悲の如し今日蓮等の慈悲なり」(御書P721)と仰せです。
大慈悲の師に心を合わせるから抜苦与楽の力が湧く、「師弟」こそ慈悲の原動力なのです。
戸田先生は言われました。
「大聖人ほどの大慈悲の仏様は、断じて他におられません。この大聖人の大慈大悲を、全世界に宣揚しなければならない」
この使命の直道こそ、日々、皆様が生き生きと行じている正義の対話であります。

戸田先生は語られました。
「凡夫には慈悲など、なかなか出るものではない。だから慈悲に代わるものは『勇気』です。『勇気』をもって、正しいものは正しいと語っていくことが『慈悲』に通じる。表裏一体なのです。表は勇気です」
「その心に満ちて、相手を折伏するならば、相手がきかないわけがない。どんなきかない子でも、母親の愛情には、かないません」

そして、ここからは、私が読んで一番心に刺さったところです。

苦難を勝ち越えよ

青春時代は、自分自身も苦しみや悩みの連続です。しかし、大きな苦難を勝ち越えてこそ、強くなれる。

苦しんだ分だけ、人の苦しみがわかり、慈悲が深くなる。広宣流布の使命の戦いの中で、人の何倍も苦労することが「同一苦」に挑む誉れある格闘なのです。
自分自身の勝利が多くの共の励ましとなり、後に続く後輩たちの希望となる。リーダーが難に遭い、そして難に打ち勝っていく姿を示していくことは、「慈悲の行」そのものです。
折伏精神で進む、我が創価の青年こそ、全人類の「同一苦」に挑戦し行く、「抜苦与楽の大英雄」なのであります。
牧口先生は厳然と戒めておられました。
「法律にふれさえしなければ不善(善をしないこと)でもかまわないと誤解しているところに、現代の病根があり、独善偽善者が横行する結果となっている」
自分さえよければ、他の人がどうなってもかまわない。(中略)こうしたエゴや不正が渦巻く社会にあって、創価の友の仏菩薩にも等しい行動は、想像もつかないほど崇高なのです。だからこそ嫉妬され、中傷されるのです。
戸田先生は厳命されました。
「我が学会は宇宙尊厳の和楽の世界である。決して魔に崩されてはならない」

3月17日から、極度の憂鬱と、自信のなさに沈む日々が続く。だからこそ、耳に痛かったこと。そして、この池田先生が引用された牧口先生の御指導は、学会系掲示板で時折出てくる、学会員だから同志であり、間違ったことを言っていても、ただ仲良くすることに対しての警鐘ではないでしょうか。学会員であろうとなかろうと、間違ったことは、間違っていると勇気を持って語るべきではないでしょうか。

世界が我らに期待

ロシア科学アカデミー哲学研究所・東洋哲学センターのM.ステパニャンツ・センター長は、語っておられました。
「仏教は、暴力や軍事力を一切使わずに地球上に思想を広め、世界宗教となった唯一の例です。広める方法は2つだけでした―言葉(仏の教え)と行動(仏教者の振る舞い)です」
「言葉」と「行動」というソフト・パワーを武器とした仏教興隆の歴史は、人間精神の輝かしい勝利の軌跡なのです。
武力に対する対話の勝利!
権力に対する民衆の勝利!
不信に対する信念の勝利!
憎悪に対する慈悲の勝利!
邪知に対する智慧の勝利!
その最先端を行くのが、日蓮仏法であります。

宗教の力が不可欠

いかに高邁な理想を掲げた運動も、確たる生命観や生死観がなければ、人間不信や嫉妬・憎悪などの感情に足を取られ、結局は分裂し、衰亡せざるを得ない。これは、古今の歴史の痛切な教訓でありましょう。
仏法は、人間の「一念」に光を当てます。相手の「境涯」を見つめます。人種や民族、学歴や肩書きなど、あらゆる差異を超え、「生命」という最も普遍的な大地に拠って立ちます。
それゆえに、狭い通年や偏見に囚われず、大胆かつ率直に、心と心、生命と生命を結び合いながら、人類の新たな価値創造の活路を開いていけるのです。
「仏法に国境はない」―これが恩師の叫びでした。私はその直弟子として、世界を舞台に、人間主義の対話のうねりを起こしてきました。
動くことです。語ることです。たゆみなき一波また一波が、「分断」から「結合」へ、「対立」から「融和」へ、「戦争」から「平和」へ、人類史を転換しゆく潮流となることを信じて、私は戦ってきました。
著名な経済学者であり、晩年には創価大学で青年を薫陶してくださった故・大熊信行教授はこう結論されていた。
「およそ平和主義の原点といえば、盗用でも、西洋でも、実は宗教なのであった」
平和な国家を築くためには、人間のあらゆる営みにあって、精神性を開花させゆく「哲学」「宗教」の力が絶対に不可欠である。
戸田先生は、青年部にこう呼びかけられました。
「根本の哲学は、生命哲学である。我々は、この大哲学によって、世界をリードするのである。諸君は、既に世界的な指導者なのです」
若くしてこの最高哲学を実践しゆく、わが青年部・未来部の友は、民衆のため、広布のため、強力な指導者に陸続と育ってもらいたい。

『強力な指導者に陸続と育ってもらいたい』この御言葉を読むと、私が、池田先生から頂いた『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』を頂いた時に添えられていた言葉を思い出すのです。『偉大な平和の指導者になりゆけ』と。未だ、結果を残せていないための申し訳なさと、苦しみを肥やしにして成長しなくては、と思うのです。

一緒に題目を唱え

大事なことは、広宣流布を前進させることです。広宣流布を邪魔したり、足を引っ張ったりする魔の蠢動を断じて許してはいけない。
戸田先生は「仏道修行をやりぬけば、あらゆる衆生を堂々と導いていける大境涯になる」と言われました。
リーダーは、皆の苦しみをわが苦しみとし、皆の喜びをわが喜びとして、親身になって尽くしていくことです。一緒に勤行をし、一緒に題目を唱えていくことが大切です。
そして、師の如く自分自身が先頭に立って、勝利の道を断固として切り開いていくことです。ここにこそ、真実の人間指導者の王道があります。
日蓮大聖人の御心のままに、「一切衆生の同一苦」に打ち勝ちゆく創価スクラム。この学会を護り、学会と共に歩む人生こそ「慈悲の中の大慈悲」(御書P1467)の前進です。

 新世紀
  我らの舞台と
    晴れやかに
  右手に哲学
    左手に慈悲もて

ここでは、今までの総括と言えるのではないでしょうか。その慈悲故に、広宣流布を邪魔したり、足を引っ張る行為を許してはならない。それは、学会員であるなしは、一切関係ない。師匠に誓い、一人になっても、仏法を行動として示し、勇気を振り絞り戦い抜くこと。指導者は、皆と同じく苦しみ、喜び、ともに題目を唱えていくこと。今回の内容は、実は何度も打ち直しました。結果として読む度に思索し、1番心に残りました。無気力さから、読んでも実はこうして打っていても、心に残らないことが多かったこと。そして、そんな自分自身が悔しくて仕方なかったのです。そして悪循環に陥ること甚だ多し。しかし、それにもめげずに研鑽に励みたい。最後に、2009.4.7寸鉄より。

「君自身の過去の奴隷となるな」哲人エマソン。現当二世の仏法。今からが勝負だ!

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