美術におけるクラシック

美術におけるクラシックについて、wikipediaから引用致します。


古典主義

古典主義(こてんしゅぎ)は、ヨーロッパでギリシャ・ローマの古典古代を理想と考え、その時代の学芸・文化を模範として仰ぐ傾向のこと。均整・調和などがその理想とされる。文脈により異なった意味合いで使用される。ロマン主義の対概念。

イタリアのルネサンスは古典古代を復興しようとする文化運動であった。これは各国に大きな影響を与えた。

フランス革命前後から、バロック美術に対して新古典主義美術が主張された。貴族的なバロックに対して、市民的な新古典主義といわれることもある。

建築史では、ギリシア建築・ローマ建築を範とするルネサンス建築、新古典主義建築など、主にオーダーを用いる建築を古典主義の系譜と捉える。

新古典主義

概要:ギリシア・ローマの古典様式を模範とし、当時なりに解釈し、洗練させた芸術様式が生まれた。形式的な美、写実性を重視しており、その成り立ちから、新古典主義(ネオクラシズム、Neo-Classicism)と呼ばれる。新古典主義はフランスのアカデミーの主流になっていった。

フランス革命、ナポレオン・ボナパルトの登場によって、古典の英雄主義的な主題はさらに好まれるようになった(ダヴィッドによるナポレオンの戴冠式を描いた作品は新古典主義の代表的なもの)。第一帝政期の様式は帝政様式アンピール様式、Empire)とも呼ばれる。

絵画:新古典主義の主な画家としては、ダヴィッド、アングル、ジェラール、グロ等が挙げられる。 ロココ様式の華美で表層的な表現や、イリュージョニズムに熱狂するバロック様式へのアンチテーゼとして、デッサンと形を重視し、理性を通じた普遍的価値の表現を理想とした。 19世紀に入り、より感性的・情熱的で表現者自身の感覚を重視するロマン主義(ロマン派)が台頭し、新古典主義とは真っ向から対峙する事となる。

新古典主義の巨匠アングルと、ロマン派の巨匠ドラクロワの対立は有名だが、これは17世紀の、素描のプッサン派と色彩のルーベンス派の論争に類似している。 この絵画の造形上の対立は、更には古代ギリシャに実在したと伝えられる二人の画家、アペレスとゼウクシスの対比に遡ることも出来る。つまり、線の連続性や調和を重視し色を輪郭に即して用いる態度、色の効果を重視し色斑によって形体を描き出す態度の相違は、絵画の誕生とほぼ同時に存在していたと言える程に根源的なものなのである。そして連綿と続くこの対立はアングルが指摘したように、色彩が優位を保つには手数が少なく素早い制作であることが不可欠であり、卓越した形体表現に必要な階調・バルールの徹底的な研究と絢爛たる色彩が両立しないことが根底的な理由である。


彫刻:イタリアのカノーヴァが古代の理想を受け継いだ作品を残し、ナポレオンの依頼で皇帝像も制作している。


建築:フランスのパンテオン凱旋門などが代表的。イギリス、ドイツなど各国でも新古典主義的な作品が造られた。ギリシア・ローマ建築を理想とし、調和、均整、重厚などの特徴がある。

工芸:イギリスのウェッジウッドは、ジャスパーウェアをはじめとする器に、古代ギリシャエトルリア、ローマ、エジプトの陶器の形状、意匠を取り入れ一世を風靡した。この傾向はマイセンなど大陸諸窯にも大きく影響を与えた。

また、ヴィンケルマンは、芸術は自然を理想化すべきもの(美のイデアを表すもの)であり、それは古代ギリシアにおいて達成されている、従って我々が目指すべきは古代ギリシアの模倣である、と説いたことによってその著作は新古典主義の理論的支柱となり、ゲーテ、レッシングにも影響を与えたようです。


ギリシア建築

ギリシア建築は、古代ギリシア人によって確立された建築様式。特に神殿建築は最も完成度が高く、以後2500年もの間、古典主義建築の直接的、間接的規範とされ続けたが、決してその完成度を超える建築は創造されなかった。

ギリシア建築は紀元前8世紀頃から形成されはじめ、紀元前5世紀中期の古典時代にその絶頂を迎えるが、空間よりも細部装飾や比例原理を洗練させて自己完結していく傾向にあり、現代の美術的な感覚からすれば、建築よりもむしろ彫刻に近い。

ドリス式は特有の堅牢さ、重厚さを持つ神殿建築を確立した。

アテナイアテーナー・パルティノス大神殿(パルテノーン)は、ドリス式神殿の、そしてギリシア建築の最高傑作と言える作品である。また、ひとつの神殿のなかにドリス式とイオニア式を混淆したという点でも特筆に値する。

パルテノーンは伝統的規範を墨守し、かつ、厳格な比例関係を保つように再構築された。このように、神殿の構成はドリス式特有の厳格なものであるが、内陣は女神アテーナーにふさわしい、優雅な2層構成のドリス式円柱にイオニア式フリーズを組み合わせたもので、外部も古典期の傑作と言われる多くの彫刻(いわゆるエルギン・マーブル)によって飾りたてられた。

パルテノン神殿についての、より詳しい説明については、こちらがより詳しいです。
パルテノン神殿

建当時は、中央にフェイディアスが彫った巨大なアテナの黄金象牙像が安置され、様々な大理石の彫刻が破風や壁々を飾って絢爛を極めた。

建築様式:パルテノン神殿は、外部を囲む柱はドリス式オーダーだが、西側の後陣内部ではイオニア式オーダーの様式を取り入れている。それまでの方式では、一つの建築に様式を混在させることはなかった。神像の安置された内陣は、コの字型に上下2段のドリス式オーダーが配置され、アテナ神の格調高さを補強したが、これは今日では殆ど残っていない。

アクロポリス神域に残る神殿のうち、アテナ・ニケ神殿、エレクテイオンはイオニア式で、特にエレクテイオンは、イオニア式を用いた神殿の至宝といわれる。これらの神殿は、アクロポリス神域において、ドリス式のパルテノン神殿をより一層引き立てている。

ルネサンス建築

ルネサンス建築の特徴としては、建築家たちが人体の比例と音楽の調和を建築に組み合わせることが美の具現と信じ、設計において簡単な整数比(耳に心地よい和音の比例に対応)を用いたこと、建築の平面として集中形式を好んだこと、透視図法を空間表現の手段として用いたことなどが指摘される。こうした建築理論が書物によって広く普及したことも大きな特色である。従来の建築は職人の技とのみ考えられていたが、数学的に根拠付けられ体系化されることで、幾何学・音楽・天文学と並ぶ学問と認められるようになったのである。

特徴

和音の比例と数的秩序:楽器が奏でる美しい和音の比例が、建築の美しさをも決定するという概念がルネサンス建築を特徴づける要素の一つである。数的秩序によって調和が生まれるという概念は今日においても理解しやすいものであり、その中には普遍的な要素があると言えるであろう。しかし、ルネサンス時代の比例調和の探求は、さらにルネサンス固有の様相を呈していたことに注意する必要がある。

現代では、一般に、あるものを美しいと感じるかどうかは人間の認識に依存し、美とはきわめて主観的なものと認識されている。しかし、ルネサンスの時代には、建築の美というものが単純な整数比に支配された幾何学的な構造によって、厳密に定義されると考えられていた。ルネサンス建築において、比例による数的秩序は音楽調和に関連づけられているが、これは音楽がすでに数学の一分野として、学芸として確立されていたことに起因する[2]。音楽の聴覚比例と建築の視覚比例が密接に関連するという考え方は、単なる理論にとどまらず、実際に建築に応用された。

弦の長さが簡単な整数比になるような弦楽器の音を組み合わせると、心地よい和音になるという考えは古くから知られており、特定の整数比(1:2や2:3など)を神聖視する考え方は、万物の原理が数であるとするピタゴラスにまで遡ることができる。このような調和美について、ウィトルウィウスは『建築について』のなかで、劇場の設計方法として取り上げていた。ウィトルウィウスが整数比を劇場という特定の設計においてのみ語ったのに対し、レオン・バッティスタ・アルベルティはこれをさらに拡張して、2:3、3:4、1:2、1:3、1:4、8:9という数比を挙げ、これが目と耳を歓ばせるものであるとして建築形態の美や調和が生み出されるという考え方を定義した。これは ネオプラトニズムに基づくものであり、建築をより普遍的に記述しようとする意識の現れであった。

音楽の調和比例が視覚的美を決定するというアルベルティの考え方は、彫刻、絵画にも規定され、ルネサンスの学者や芸術家たちによって研究された。ウィトルウィウスの述べる調和比例の根本原理は人体に表されているという記述は特に注目された。

新古典主義建築

新古典主義の最初の転換点となったのは、1753年に刊行されたマルク・アントワーヌ・ロジエの著作『建築試論』である。ロジエは建築の原始的形態にまで遡り、柱・梁(エンタブレチュア)・破風(ペディメント)の要素のみで構成された建築(「原始の小屋」)が、真の古典建築の規範であると考えた。ウィトルウィウスの理論が建築各部の意味をギリシア建築に由来するものとして解説しているのに対し、ロジエのそれは、あらゆる文明の発祥に適用するとのできる状態にまで還元したものである。もっとも、これは想像上の起原にすぎず、実証性に関しては無担保であった。

代建築に内在する美、すなわち真理を探究し、諸芸術の真の復活を意図した躍動的な運動であった。この建築様式を支えたのは、啓蒙思想家たちによる合理的思索と、ロココに表現される軽薄な旧体制に対抗する道徳的観念である。


建築の合理的解釈
フランスにおける建築の合理的解釈は、ペローにおいては、遺跡の測量やルネサンスの建築論を比較して、オーダーなどの建築比例が決して宇宙的秩序を具現したものではないという見解を示し、コルドモワにおいては、ゴシック建築の構造的側面に着目し、加重を支持する垂直と水平のラインの強調という特質が、古典主義建築の文法によって説明できることを示した。すなわち、ルネサンス以降、自明的とされた前提に対して根本的な問題を提起するものであった。

ロジエの『建築試論』は、これらのフランス合理主義の結節点となった。それは、「原始の小屋」という建築の根源的形態と考えられた柱、梁、破風を重視し、他の要素を付属物と見なすことであった。また、コルドモワと同じく、ゴシック建築の構造的な合理性に言及し、その手法がこれからの建築に表現されなければならないとされた。

建築美の相対化:18世紀、ギリシア建築ほどのインパクトはもたらさなかったものの、エジプト、インド、そして中国建築までもが建築的思考の対象となった。しかし、各時代、各地域の建築に関する情報が集積され、研究されるに従って、ルネサンス以降信じられたオーダーに内在する絶対的な美や、古代に存在した純粋性などというものの存在はむしろ否定され、建築美とは、恣意的で相対的なものにすぎないと考えられるようになった。

ガブリエル・ピエール・マルタン・デュランは、『集成比較』で、ロジェの原始的小屋の構成(柱、梁、破風)が建築の規範であるとする概念を否定し、ビルディング・タイプごとに歴史上の建築を並列配置した。デザインの基本原理は単純化された幾何学、すなわち規則正しいグリット・パターンと対称性に還元された。このため、19世紀には、個々の建築に各時代の様式が恣意的に選択されるようになり、ネオ・ルネサンス、ネオ・バロック、ゴシック・リヴァイヴァルといった様式の氾濫期を迎えることになった。

しかし、最終的には新古典主義の絶対性そのものを否定したものの、建築形態の抽象化や、理念によって建築を構築するといった手法は、近代建築に継承されている。

こうした一連の中でモダニズムは生まれました。そうした中で、巨大ビルディングなどが誕生しました。しかし、合理性・機能性を求めるあまり、均整の取れた美しさといったものは、消えていきました。絵画や彫刻などでも、音楽と同様に、機能的・合理的に、より多彩な表現を試みた結果、民衆からの遊離といったことは、音楽のようにはあり、ありせんでしたが、均整のとれた美しさから離れたとは言えるでしょうか。

私自身は、均整の取れた建物や絵画を見るのは好きですが、印象派の鮮やかな色彩の絵を見ることも、分野は異なりますが、風景写真を見ることはとても好きです。富嶽三十六景も好きです。あの波が描かれた絵の波の形は、ハイスピードカメラには、あのように波が撮影されるようです。葛飾北斎の見る目は凄いと思いつつ、そうしたある種の心象スケッチも、ものの真実を写し取ったものということができるでしょうか。

古典といっても、その地域ごとに、美術における古典時代があります。日本であれば、飛鳥文化から平安文化の時代、中国であれば、隋・唐の時代、インドであればグプタ朝時代、イスラム圏であれば、セルジェク・トルコ時代がそうでした。

次回は、仏教文化から書いて参ります。法華経の影響を受けたものを中心に取り上げながら、結論を導き出そうと思います。



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