佐村河内守騒動を振り返って

さて、3月初頭よりも、頭がスッキリした。ということで簡潔に。
私がこの騒動に巻き込まれたことに深く感謝する思いである。
それは雛形辿りで様々な作品に出会えたことだけではない。

意外や意外で、池田先生が青春対話で述べた、

芸術の世界は、「ほっとする」ものであって、身がまえたり、窮屈になったりするものではないのです。疲れている心を励ましたり、きゅっと凝り固まった心を、ときほぐし、解放させてくれるのが、芸術であり、文化なのです。

【池田名誉会長の青春対話2 21世紀の主役に語る 池田大作(聖教新聞社)以下同】

一流の芸術には「生命力」がある。生きている。作者の「生命」が打ちこまれ、魂がこもっている。

に、一歩一歩近づいていることを実感する。
もちろん、本当に彼の偽りのプロフィール通りの人物が相応にふさわしい作品を書いたらそれは賞賛されるべき。また手帳制度で護られるかどうかギリギリの聴覚障碍者に対して冷たい眼差しで接することにはこれからも反対である。もっともっと人を見抜く力をつけなければならないのは変わらずなのであるが。

天球の音楽とは、こういうものをいうに違いないと思えてくる自分がいる。


セル指揮クリーヴランド管弦楽団と、UNiLTE制作カール・ベーム指揮ヴィーンフィル演奏のモーツァルト 交響曲第41番フィナーレから。

P.S.
聴き手がどう思うかということで、音源が出回っていないというのもあるが、2つリンクを張ろうと思う。ちなみに、今の私の立ち位置は、その音楽職人ぶりに好感が持てる。iPhone16gしかしかないので、鬼武者交響組曲"RiGiNG SUN"以外は入れていない。というよりも、他に聴きたいものがたくさんあるから。近代オーケストラのオーケストレーションの教科書のような作品。悪魔の音程こと増4度=減5度音程の出番はあまりないといってもゼロでもない印象。交響曲「現代典礼」でしか聴けないオーケストレーションというと、第2楽章後半のトロンボーンから始まるトランペットの語らいがもたらすヴァーグナー・チューバを模した響きであったり、第3楽章のカタストロフくらいでは。ただ、カタストロフは片鱗があるかなという印象。新垣隆氏は書く作曲技術はあっても、あの一連の注文なしには作ることはできなかったことは明らか。新しい技法以外認めない風潮は芸術音楽の世界にあるのは確かであるし、そういう経緯なしに生まれないという時代が、この今という時代の皮肉にも思える。だから私が第2次世界大戦以降の芸術音楽と呼ばれる作品で追いかける予定は、より暗く執拗なアラン・ペッテションの交響曲、現代音楽の理論の袋小路を限界突破した松平頼暁の作品、旧来の形式美を順守しながら逸脱しきったベートーヴェン晩年の弦楽四重奏曲に近い作風の作品を追いかけていく方向にシフトしていくことにした。


しかし、交響曲「現代典礼」に関しては違法録音と来たか。あの日、睡眠時間90分で駆けつけ、その後東京ミッドタウンで面会し、サインを頂いたことを思い出すが、すでに幻。しかし、悔いなし。すべては、上記の結論に行くために私にとっては必要不可欠なプロセスであったのだ。