信心の基本を学ぶ

「信心の基本を学ぶ」

 今日は難しい話ではなく、功徳を受けない信心のコツの話をしに来た。

 この間、悲惨な話を間いた。ある婦人部が家庭の問題で悩んで1000万遍をあげたが、解決しなかったので落ち込んで寝込んだというです。先輩が心配していって見たら、「こんなに拝んでも良くならない。御本尊の馬鹿!」と拝んでいたそうです。形は信心強盛でも心が不信だから解決しなかった。「あなたは不信ですよ。」「いや、私は信心強盛です。」「でも不信じゃない」「じゃぁどうすればいいの?」「いつまでにどう解決したいですか?そう決めて祈ってご覧なさい。」と言われて、そう決めて祈ったら2週間で解決したそうです。

 唱題ではなく祈りが大事。婦人部はよく唱題されます。立派です。唱題会も良いが、自分と御本尊は1対1だから、きちんと祈れば叶う。唱題のための唱題では何も叶わない。10時間唱題会なんてやらないほうがいい。あれは拷間の一種だから。

 個人がやるのは何時間やっても良い。自分が決意して祈るのは良いが、みんなを縛っちゃいけない。これは先生の指導。リレー唱題会も割り当てでやっていますが、あの功徳はどこへ行くんでしょうか?また、100万遍あげて落ち込んでる人が婦人部にはよくいます。信仰とは祈ること。頑張るための信仰をしてはいけない。婦人部は頑張っています。立派です。でも全然変わっていない。これからは「頑張ります!」と言ってやるのはやめましょう。「頑張ります!」「頑張りましよう!」「でも変わりません!」だから、信仰は頑張るためにやるのではない。

 変わるためにやるもの。何が変わるのか?生活が変わり、生命が変わり、環境が変わる。変わるための信仰。頑張ってれば変わるのではない。変わるために頑張るべきなんです。「頑張ります!」ではつまらない。「変わりましょう!」「変わります!」「変わりました!」これを『信心の三段活用』と言う。こう言っても、皆さんは帰りに「頑張ります!」と言って帰るでしょう。なかなか身についた習性は抜けない。

 信仰というのは、行動の因果ではない。ただ頑張ればいいのではなく、一念の因果、どういう一念で頑張るか、その一念に功徳がある。頑張っても結果のでないのは一念が間違っているから。行為は正しい。一念が間違っていれば空回りになったり、功徳がなかったり、マイナスになることもあり得る。心こそ大切とよく言われる。ただ頑張ればよいと言うのは間違っている。一念の因果だから。一念を定めで頑張ることです。生活の方程式は、行き先を決めて、予定を立てて、行動するから、目的地に到着する。行き先,予定を決めないで、何となくぐるっと回って帰ってくるのは散歩。何となく信心している人はお散歩信心。気分転換程度、やらないよりはまし。でも変わらない。

 東京都内は規制があって、昼間は大型トラックは通り抜けできない。夜中に時速120〜130キロで高速道路をぶっ飛ばして行く。土曜日の夜は暴走族も飛ばしているが、これは違う。大型トラックは行き先・予定があるから飛ばしでいる。暴走族は行き先・予定もなく飛ばしているだけ。信心も同じ。「頑張ります!」と言って頑張っている人の車を『宿命の暴走族』と言う。婦人部はほとんど暴走族。男子部は勤行をしないで頑張っているが、これを『活動の暴走族』と言う。頑張ってもちっとも変わらない。行き先・予定を決めて突っ走らなければいけない。何をいつまでにどうするか。これが当面の行き先と予定。自分のこと、家族のこと、仕事のこと、組織としてのこと、何項目でもかまわない。具休的にいつまでにこうしようと決めること。その上でそれを御本尊に強く祈って必要な行動をすれば必ず結果がでる。決めで祈り、祈って動くこと。意外とこれを決めないで頑張っている。婦人部が祈っているのは成果だけ。変わろうと思っていない。だから功徳が出ないから行き詰まってしまう。変わろうと決めて、祈って動けば結果がでる。信心は簡単です。

 どうしたらいいかと祈っている人がいるが、全く意味がない。交番へ行って「どこへ行けばいいのでしょうか?」と聞いているようなもの。答えがない。御本尊が何か決めるのではない。自分が決めて祈るからそうなる。「こうしたい!」「こうなりたい!」と祈ること。必ずそうなる。「困った!御本尊!以上終わり!」簡単です。これを『南無』と言う。南無というのは、「生命を任せます!」と言うこと。「お願いします。あとはよろしく!」これで良い。でも結構任せていない人が多い。「お願いはしてみます。でもだめだろうな。」と祈っている。だからそうなる。願い通り。できないと決めたら御本尊不信。だめだと決めたら御本尊不信、自分の中の甘さも御本尊不信。願ってお任せ。「お願いします!あとはよろしく。」これでよい。信仰というのは、無理だから祈る。方法がないから祈る。常識で不可能だから祈る。方法があれば祈る必要はない。やればいいんです。道がいないから祈る。それが南無。そう御書に書いてある。「湿れる木より火を出し、乾ける土より水をもうけんが如く強盛に申すなり」と。「“湿った木を燃やしてみせる、砂漢から水を出してみせる”と強く祈るんだよ!」とおっしゃっている。「不可能を可能にするのが信仰だよ!」とおっしゃっている「お願いはしてみます。でもだめだろうな。」と祈っている。これを『半南無』と言う。半信半疑は不信だから叶わない。「だめでしょうね。」とその通りになる。

 一昨年の4月に、創価大学の女子学生が来た。「語学の勉強に海外に留学したいんですけど、家庭の事情で行けそうにありません。」と言われたので、「親に頼んでもだめなら御本尊にお願いしたらどうですか?無理だから祈るんですよ!これから祈れば叶いますよ!前が断崖絶壁で道がないんですから。祈れば橋が架かるように道が開けますよ。」と話をした。すると去年の2月15日に、「3月から1年間、アメリ力へ自費で留学することが決まりました:あの時、祈ったら橋がかかっちゃいました。不思護ですね。」と言うから、「だから妙法と言うんですよ。」と言った。不可能を可能にするから妙法と言う。頭で考えても判らないから妙法と言う。無理を承知で祈るんです。だめだから祈る。方法がないから祈る。方法がないから祈る。そうすると道が開ける。道はないのだから探さないこと。だから祈って道を作ればいい。借仰は力一ナビの世界ではない。カーナビというのは道がないところへは行けない。道がなかったら飛行機かヘリで行けばいい。道がなくても祈っていけばいい。簡単です。

 3年前にある婦人が来た。「主人がガンであと3ケ月の命と言われた。治るでしようか?」と聞かれたので、「わかりません。簡単に治るなんて言えません。でもよく戸田先生が、“医者にかかって治るものは医者にかかれば早く治る。医者が見放したらもうこっちのものだ。もう御本尊しかないと決めたときから治り始めるんです。”とおしゃっていた。もう御本尊しかないということは、自分の力で治すしかないということ。そう決めて祈った時に自分の持っている生命力と智慧が湧くんです。仏界が出て来るのだから。弱さを出すから病気になる。その根源は宿業だから。謗法に汚染された命の癖が重い病気になる。強さを出せば病気は治る。仏界です。最高の生命力を出せば治って当たり前。そういう面で病気は治るか治らないかではない。治すか治さないか。本人次第、決意次第。医者も「重い病気にかかった人が、“病気が治ればいいなあ”とか“治りたいなあ”とか決意の弱い人は治りにくい。“絶対治すぞ!”と決意すれば早く治る。」と言っている。これは信仰に関係ないが、信仰も同じ。“治ればいいなあ”では治らない。“いつまでに治そう!”と決めたときから治り始める。」と話をした。ちょうど1年後に、ご主人と2人で来て、「病院へ行って“お父さん!もう無理だそうです。無理だから祈りましょう。だめだから祈りましよう”と祈ったら、治っちゃったんです。無理を承知で祈ると利きますね。」と言っていた。それが信仰です。

 一昨年4月に奈良に行った。会合終了後に50歳前の圏婦人部長さんが来て、「関節リュウマチで足が痛くて歩けない。医者にかかっても治らないんです。」と言っていた。「もしかして、治らないと思っていませんか?」と聞くと、「思っています。」と言う。「それじゃぁ治る訳がない。“御本尊様、治りませんよね。”と祈ってるんだから。願い通りです。御書に“南無妙法蓬華経は獅子吼の如し如何なる病障りをなすべきや”とあるじゃないですか。“ただしリュウマチを除く”とは書いてありませんよ。」と話をした。「医者で治せないから信心で治すんでしょ。治らないでも治しなさい!」と言ったら、「治します。」と言って帰っていかれた。次の日、その婦人から「昨日から痛みが止まりました。」と電話があった。約半月で治ったそうです。治らなかった原因は治らないと思って拝んでいたから。決意して祈るから治り始める。だから病気は治るかではなく、治すかどうかです。決意して強く祈れば必ずいい方にいく。

 「信心していれば何とかなる。」というのは迷信の一種。何ともならない。祈った分しか結果は出ない。それが信仰だから。活動家の皆さんは、みんな勤行・唱題し活勤をしているが、功徳を受けてどんどん変わる人と、全然変わらない人、悪くなる人がいる。どこが違うのか?一念の姿勢が違う。

 ◎決意・目標を明確にして「変わろう!こうなろう!こうしよう!」と決めて頑張っている人を『前向きの信心』と言う。

 ◎惰性と義務で頑張っている人、何となくしょうがなく頑張っている人、幹部だから頑張っている人、やめると怖いから頑張っている人、こういう人を『横向きの信心』と言う。

 ◎不信と怨嫉で頑張っている人、頑張っては愚痴、頑張っては文句の人、こういう人を『後ろ向きの信心』と言う。

 前向きの人はどんどん前進する。どんどん変わる。「頑張ってます!」と言っても、横向きの人は空回りで変わらない。後ろ向きの人はだんだん後退して悪くなる。車で言うと、ドライプ・ニュートラル・バックギアにあたる。エンジンがフル回転してもギアが入っていなければ前に進まない。ニュートラルでアクセルを踏んでもエンジン空吹かし。バックギアで吹かしたら事故を起こす。婦人部にはバックギアで頑張っている人が結構いる。頑張っては愚痴、頑張っては文句、頑張つては怨嫉、亭主・子供をひき殺して頑張っている。奥さんが変わらないから主人以下みんな不信になっている。変な信心。

 では、これからどうすればいいのか?前向きに、強気に、過去のことは反省しないこと。反省してもどうせまたやるんだから。生命が変わらないとまたやるから。決意すればよい。これから良くなればいい。後ろ向き運転は事故の元。過去のことは振り返らないこと。良くなれぱいい。過去のことが活きてくるから。振り返っても落ち込むだけ。いつも前向き、強気でいい。先生は「タッチの差だ」と言われている。オートマチックの車だと、ドライプとバックキアはわすか2〜3センチの差。タッチの差だが結果はえらい違い。頑張っていることは同じだが、前向きと横向きでは結果はえらい違う。「いつも信心は前向きで行くんだよ!」と先生も言われている。「言われたから、しょうがないからやる」では、ニュートラルかバックギアになってしまう。そうすると苦しくなる。変えるために、功徳を受けるために頑張ればよい。そうすれぱどんどん変わる。頑張るために頑張ってもだめ。しょうがなくて頑張つてはだめ。マイナスになってしまう。

 100万遍あげても不信なら功徳はゼロ。頑張っても信心のことで愚痴と文句を言うと功徳はゼロになる。「愚痴と文句は功徳を消すよ!」というのは先生の指導、なぜかと言うと、祈れば解決する。祈らないで愚痴を言っている・文句を言っているのは御本尊不信だから。「私ばっかり苦労して」と言うが、言い分は正しくても何も解決しない。これを『正しい愚痴』と言う。正しい文句かもしれないが、だめ。解決しない。信心は良いか悪いかではない。良くなるかどうか。仏法は勝負。良くなるように祈ればいい。そうすれぱ解決する。いくら「私が正しい!」「相手が間違っている!」と言っても、愚痴と文句だから開けない。功徳を受けたい人は愚痴と文句をやめること。同志に怨嫉をすると功徳はマイナスになる。罰になる。怨嫉は謗法だから困ったことに、相手が間違っていても同志だと怨嫉になる。「私が正しい!」「相手が間違っている!」と言っていることが結構ある。これを『正しい怨嫉』と言う。

 正しくても怨嫉した方が罰を受ける。させた方ではなく、した方に罰が出る。そう御書に書いてある。「それが本当でも嘘でも」と書いてある。怨嫉する理由が何であっても、同志であれば功徳はマイナスになって出てくる。相手が間違っていれば、相手は因果の理法で裁かれる。人が裁くのではない。法が裁く。相手の成長を祈ってあげること。そうすれば自分も相手も良くなる。「幹部のくせに」と言わないこと。変な幹部もいるが、成長を祈ってあげること。「幹部のくせに」と言ったら怨嫉になる。

 正しくても怨嫉になってしまう。成長を祈ってあげれば相手は変わらなくても自分は良くなる。相手がやるからこちらも怨嫉をやり返すことを『差し違え』と言う。これもよくあるが、両方とも功徳が消えてしまう。人のために功徳を消してはつまらない。人のことはほっとくか祈るか、どっちかしかない。感情をぶつければ怨嫉になる。御本尊に祈ってあげれば自分も相手も変わる。結構多いのが家庭内怨嫉。主人を恨み、姑を恨んで頑張っている。主人を恨んでも変わる気がないんだから無駄。そんな主人を選んだのだから自業自得。

 よく戸田先生が「3歳と5歳の兄弟だから喧嘩になる。境涯が近いからだよ。片方が10歳だったら喧嘩にならないだろ。夫婦でも同じだよ。自分が境涯を上げて、相手を引っ張り上げてやればいいんだ。」と言われていた。相手の成長を祈ればいい。主人の成長を祈れば自分が成長する。相手も成長する。感情をぶつけるから怨嫉になる。主人は悩んでいないから。こっちが祈るしかない。姑さんも悩んでいない。変わる気もない。成長を祈ってあげること。嫁は未熟に決まっているんだから、姑は成長を祈ってあげればいい。「これだけは別」と言う気持ちでやっている。もともと姑と嫁は天敵。その前に同志なんだから祈ってあげればいい。そうずればすっきりするのに。怨嫉をやめて相手のことを祈れば自分が良くなる。これがコツ。

 婦人部はよく壮年部に怨嫉している。理由はわかる。でも壮年部は、悩まない・動かない・祈らないだから、怨嫉したくもなりますよね。『正しい怨嫉』です。でも功徳は消えてしまう。それではつまらないから、壮年部には怨嫉しないこと。どうしたらいいかというと、頼りにしないこと。頼りにするから腹が立つ。なぜかというと、壮年部はまだ末来部。昔から全然成長していない。しかも本人たちは悩んでないから。頼りにしないで成長を祈ってあげること。婦人部は怒っているが、祈ってない。悩んでるのはこっちで相手に悩んでないんだから、怨嫉をやめて成長を祈ってあげること。大事にして下さい。育ちますから。

 水道の蛇口から水がポタポタと垂れているのをバケツにためても、穴があいていれば全部漏れてしまう。婦人部はこれに似ている。思痴の穴・文句の穴・怨嫉の穴があいているから功徳がみんな漏っている。「愚痴を言わない」「文句を言わない」「怨嫉しない」これを『三悪追放』と言う。功徳を消さないコツ。その上で決めて祈って動いたら功徳が溢れてくる。その方が得。信心はスッキリと、「困った!御本尊!」と全部祈ることです。

 「良くしよう!!と祈れば良くなる。それ以外は無駄。みんな勤行・唱題しているが、一念がきちんと御本尊に向いているかどうか。それが、祈っているかどうかということ。「絶対信心で解決しようという強い決意と、具体的な目標を決めて一念を定めて祈っていること」を『祈る』と言う。祈るから叶う。唱題してても祈っていない場合、決意・目標が曖昧な祈り、唱題のための唱題、これは、『惰性の祈り』。「どうしようか」と方法諭を考えている唱題は『迷いの唱題』。「だめだろうなぁ」と思って祈っている『不信の唱題』は一念が御本尊に向いていない。祈ってないから叶わない。唱題ではなく祈りが大事。

 具体的に強く祈ること。そうすれば叶う。それ以外は叶わない。唱題のための唱題もつまらない。先生は「疑いや形式であれば、たとえ100万遍あげても境涯が開けるものではない。自分自身の発心で、目標を決めて唱題すれば必ず開けるのである。義務的・形式的な勤行・唱題、それは惰性のあらわれであり、空転を生むだけである。きちんと一念を定めて祈らなければだめだよ。」と言われている。こうなりたい、こうしたいと祈ればよい。信心は心ですること。頭でするのではない。心を、素直にぶつけることを祈りという。できるかどうかではなく、「こうなりたい!」と祈ればいい。必ずそうなる。信心は簡単です。

 3年前の春に壮年部の本部長が来た。小さな建設会社の社長さんで、「今度の不況は深刻です。当分良くなる見通しがありません。うちの会社も売り上げが落ちています。」と言うので、「でも、不景気だからしようがないと言うんでは信仰は関係ありませんね。不景気だからこそ、売り上げ目標・利益目標をきちんと決めで、祈って努力して工夫して売り上げを上げるのが信心じゃないんですか。」と言ったら、怒って帰った。それから猛烈に祈ったらしい。すると次から次へと本業以外の新しい仕事が入ってきたそうで、それをやったら全部うまくいって、ちょうど1年間で売り上げが倍になり、社員も倍になったと言ってました。「不景気だからしようがない」では御本尊不信。「だから具体的な目標を決めて祈ろう!」というのが信仰。

 去年の4月に、壮年部の会合に行った帰りに車で送ってくれた支部長が、「私は小さな貿易会社をやっていますが、3年前には潰れそうでした。2億の売り上げが1億になった。その時に無理を承知で“売り上げを3憶にする”と祈ったら3億になった。去年は“5億に!”と祈ったら5億になりました。今年は“7億”と祈っています。」と言っていた。先に決めること。祈った上で努力して道を作ればいい。それが信仰。

 2ヶ月ほど前に、大阪で美容師をやっている青年に会った。「あまり売り上げが伸びないんです。」と言うので、「具体的に祈ってご覧なさい。」と話した。昨日、その青年が「あれから、今日はカット何人、プロー何人と決めたらその通リになります。繁盛しています。」と言っていたので、「当たり前です。」と言った。

 10月に下関でセミナーをしたが、後日、分県長が来て「あれからみんなが祈るようになりました。功徳がポンポン出てきました。」と言っていた。ある車を売っている副圏長が、今日はこの車を売ろうと決めて祈ったら売れたそうです。でも利益を祈ってなかったから利益はなかったそうです。「今は利益込みで析っています。」と言っていた。

 スナックのママさんが不景気で困っていた。開店前に3時間、「今日の売り上げはこれだけ!」,と決めて祈ると売れるそうです。結果が出るから毎日の商売が楽しくてしょうがないと言っていた。ある婦人部の方は、息子が5年前に家出して行方不明になり、どうしても見つからなかったが「ようし!祈って見つけだそう!」と決めて祈った次の日、北海道の警察から電話があった。免許証の書き換えが遅れたため、息子の身元確認の電話だった。元気でいることがわかったので「探しにいこう!」と思ったところに息子から「5年間も心配かけてごめんね。でも元気で頑張っているから。去年学会に入会して男子部で頑張っているから。」と電話が入ってきて、3日目に見つかってしまった。

 功徳の出るのは当たり前。出ないのがおかしい。これを『信心の正常化』という。祈りは叶う。祈ってないから叶わないだけ。信ずるとは疑わないこと。

 どうしたら疑わないか?自分が体験したことは疑わないから信じる。この体験は活動体験ではなく功徳の体験。活動体験ではだめ。活動体験ばかりいっぱいあっても、功徳を受けなけれぱ不信になる。今は活動体験止まりが多い。かえって不信になる。功徳の体験が出れば信が深まって「もっと頑張ろう!」となる。空のボートは波が来ればゆれる。風が来ればひっくり返る。大きな石を積めば船がグッと沈んで動かなくなる。同じように大きな体験をすれば、信が深まる。体験がない信仰は観念だから何かあったら疑ってしまう。体験があれば何があっても疑わない。小さな体験でもたくさんすれぱ同じ。信が深まる。

 最近、2世3世が増えた。2世は生まれつき惰性で、何となく信仰しているから体験がなく、信心が観念的。やらされている信仰だから重荷で苦しむ。かわいそう。これを『2世症候群』という。子供に勤行を強制してはいけない。信心嫌いになる。子供だって悩みがあるのだから、信心を教えるのは大事。「こうなりたいと祈ってごらん!そうなるよ!」と教えればよい。決意して祈らせれば体験ができるから信が深まって、放っておいても大丈夫。「やらなきゃダメ!」と言ってはいけない。やらされた信仰は信仰ではないから功徳はない。先生は、「勤行を強制すると信心嫌いになるよ。信心の好きな子、学会が好きな人を育てよう。」と言われた。結構押しつけている場合が多い。そして嫌われている。自分で決意しなければ信心ではない。決意から入れば信心、形から入れば情性。決意してやらせれぱ功徳がある。無理矢理やらせたら功徳はない。2世が体験を持てば強い。体験のない2世は弱い。

 どうしたら体験できるかといえば、具体的に祈って動くこと。そうすれば必ず体験ができるから信が深まって「もっと頑張ろう!」となる。人材育成・新入会員をどう育てるか?功徳を受けさせること。喜んで活動家になる。活動を押しつけたら潰れてしまう。信心を教えて功徳を受けさせること。今、あまり功徳を受けていませんね。体験発表というと新入会員ばかり。古い会員はこんなに頑張っているのに体験がないから。やってることは間違っていない。でも信心が惰性、活動が義務になっている。一念が間違っている。先生は、「信心が惰性になったら退転だよ。」と言われた。頑張っていても退転。どういう時が情性か?10項目ある。


情性とは

一.信心の上での決意・目標が曖昧なとき

二.勤行しているが具体的祈りがないとき

三.勤行・活動が受け身になったり義務的になっているとき

四.信心のことで愚痴や文句が出るとき

五.信心の歓喜や感動・感謝が感じられないとき

六,求道心が弱くなっているとき

七.仕事や家事がおろそかになっているとき

八.悩みに負けて落ち込んでいるとき

九.広布の使命感がなくなっているとき

十.幹部としての自覚や責任感が薄れているとき

 ひとつでも当てはまれば惰性。惰性は空回り。やっていることは間違ってないのだから一念さえかえればよい。自分のために信仰すること。変わるために信仰すること。いろんな打ち出しは間違っていない。これは広布の共同目標。ノルマと受け取るから苦しくなる。功徳を受けるために頑張ればよい。そうすれば正しい。先生は、「信心は義務じゃないよ。幸せになる権利だよ。自分が決意して自分が動いた分だけ自分が得するんだよ。」と言われている。自分のためだから喜んで頑張れば功徳がある。しようがないから頑張ったら惰性で空転する。形は同じでも結果はえらい違い。幹部にほめられても、御本尊にほめられなければだめ。今は幹部公認・御本尊非公認になっている。功徳がないということは仰本尊に通じてないということ。これではつまらない。御本尊に認めてもらうのが信心。功徳を受けない信心ともうからない商売はやめることです。

 信仰とは夢があり、希望があり、ドラマがあり、歓びがある。こうなればいいなぁというのが夢、こうしよう・こうなろうというのが希望、その希望を具体的に強く祈れぱ、その希望が実現する。それが信仰。うんと夢を持って、その中からまず具体的な希望を立てて、祈って実現していく。次にまた夢を希望に変えて祈って実現していく。次から次へと夢を希望にし、実現していくための信仰。頑張っていればいつか実現するのではない。決めて祈らなければ実現しない。

 この前、大田区での会合終了後に、1人の地区部長が来て、「10年前に話を聞いて信心で変わろうと決意しました。当時、貧乏のどん底で仕事もなかった。本気で信心で変わろうと決めた。途中いろいろあったが、今、43人使って運送会社をやっています。ちょっと変わりました。」と言っていた。信心で変わろうと思い続ければグングン変わるのが信仰。そのための信仰。いつか変わるのではない。頑張っていればよいと思って功徳を受けることを忘れていませんか?それではつまらない。戸田先生は、「祈りを叶え、夢を叶え、誰よりも幸福になっていくための仏法である。人生を勝利するための仏法である。祈りが叶ってこそ真の仏法である。」と言われた。

 幸せになるための信仰。祈りを叶えるのが信心。戸田先生は、「現代の人間は非常に欲張りでありながら、成仏という絶大な利益を願わない点においては、無欲とも愚かともいうより他はない。私どもは大いに欲張って生きていること自体が嬉しくてしようがないという絶対的幸福の境涯を、我も開き友にも開かせていこうではありませんか。」と言われた。もっと頑張りましょう。うんと欲張って、何を願っても良いんです。人の不幸は祈ってはいけませんが、それ以外は何を祈ってもよい。あれもこれも願いを叶えて、その歓びを分けてあげましよう。それが広宣流布。功徳が無くて人に言えますか?。それは詐欺。仏法を語るのではなくて信仰の歓びを語ること。歓びが伝わる。

 御書に、「喜び身に余るが故に堪え難くして自讃するなり(P.334)」とある。嬉しくてしようがないからつい「仏法はすごいよ」と言ってしまう。これ.が本当の折伏。功徳をうんと受けましょう。小遣いがないのに人におごってあげられない。功徳をうんと受けて分けてあげましょう。けちはだめ。大阪の人はけちではないはずなのに、最近随分けちになりましたね。功徳を受けることを忘れている。それでよく頑張りますね。功徳を受けるために頑張るべき。先生が「皆さんの健康・長寿・幸福・裕福を祈ってますよ。」といつもおしゃる。健康・裕福になることが先生に応えること。「こんなに幸せになりました。そしてみんなを幸せにしました。」と報告すれば、先生はうんと喜んでくれる。「頑張ってます。でも変わってません。」では、先生は悲しみます。今は先生を悲しませている。先生は幸せの指導者・広布の指導者。功徳を受けない信仰は間違った信仰。惰性と義務になっている。ギアさえはいればワァっと変わる。

 あるB担が、「活動をすれど活動をすれど我が境涯少しも変わらず。」という歌を作った。これを『啄木型信心』という。頑張っても惰性では変わらない。惰性だと気がついて、何でも祈るようになったら何でも叶うようになった。去年の暮れに洗濯機が壊れた。そこで御本尊に「洗濯機が壊れたから新しいのが欲しい。できれぱピンクのが欲しい。」と祈った。1時間ほど唱題したら近所のB担さんが来た。雑談の中で洗濯機の話をしたら「じゃああげようか。」と言う。相手はマンションの管理人。最近は若い人が引っ越すときに面倒くさいので置いていってしまうらしく、「たくさんあるからいらっしゃいよ。」と言われて倉庫に行ってみたら、新品同様のピンクの洗灌機があった。1時間で叶ってしまった。何でも叶う。

 「白い良い猫が欲しい!」と祈ったら、白い猫が迷い込んできて、飼い主もわからず居着いてしまった。このあいだその猫が歳で死んでしまった。「同じ猫が欲しい!!と祈った。ペット屋さんに見に行くと十五万円した。「二万円でください!」と祈った。インターネットを見ていたら「猫あげます」と出ていた。電話をかけたら同じ種類の猫だった。「赤ちゃんができて飼えなくなったからあげます。」とのこと。そして横浜から東京まで連れて来てくれた。そこでお礼に二万円あげた。願い通り、2万円で手に入れてしまった。何でも叶う。これが普通。

 一昨年の2月に姪を折伏した。美大の生徒。おばさんが願いは叶うよと言ったから、90項目祈ったら3ヶ月で全部叶った。今100項目祈っている。どんどん叶うから嬉しくてたまらないと毎日3時間題目をあげている。それを見て嬉しいからどんどん折伏ができる。その姪の変わった姿を見るとみんな友人が入信する。

 去年の2月に「パリに行って美術館巡りをしたい」と祈っていたら、たまたま知り合った画家が「仕事を手伝ってくれるなら一緒に連れてってあげよう。」と、費用は全部向こう持ちで2ケ月間ただでパリを回って帰ってきた。何でも叶う。これが普通。それを聞いた婦人部の幹部が「私も祈ろう!」と100項目祈りだしたら、どんどん叶い、「あれ?祈りって叶うんだ。」と言っていた。

 祈りは叶って当たり前。祈ってないから叶わない。もっと欲を出して叶えましょう。頑張るばかりでは「仏道苦行」で楽しくない。『成果の無間地獄』です。功徳を受ける連続チャンスと受け止めれば功徳を受けるチャンス。やらされると思ったら苦しみになる。

 北海道でおもしろい話を聞いた。青年部時代は隊長で地区幹事さんで、漁師だったが今は福運がついて船を何隻も持っている漁会社の社長。一昨年・去年の鮭漁が不漁で大赤字で困っていた。北海道漁村部長が指導に行って、「鮭が獲れないと言うけど、鮭がいないんじやないでしょ?来ないだけでしょ?呼べばいいじやないですか!海に国境はないんだから。」と言った。それから本気で祈ったら、それまで20匹しか獲れなかったのが300匹獲れたそうです。大漁が続いていっぺんに黒字になってしまった。信心は簡単です。商売でお客さんが来なければ強く祈って呼べばいいんです。その上で努力と工夫をすればよい。

 信心していれば何とかなるというのは最高の迷信。祈った分しか叶わない。御本尊が決めるのではなく自分が決める。だから「心こそ大切なれ」である。

 どういう心で頑張るかである。仏法に形はない。どうやって説明するのか?自分が体験をして、生活・生命が変わった実証で相手に納得させるしかない。それが私たちの使命。 湧出品に「地湧の菩薩というのは如蓮華在水」とある。蓮の花は泥沼で咲く。泥沼が深いほど大きな花が咲く。娑婆世界は泥沼。その中で功徳の花を咲かせ、幸せの花を咲かせ、生命の花を咲かせ、その実証で人を救うのが地湧の菩薩。だから功徳を受けで証明をしなければならない。今は花がしおれている。これでは蜂も来ない。うんと花を咲かせましよう。そしてみんなに花を咲かしてあげましょう。それが広宣流布。私たちは自分のためにだけ信心しているのではない。広宣流布を願って信心をしている。広宣流布とは不幸の追放運動・幸せの拡大運動。「悲惨の2字を無くそう!」と戸田先生が言われた。不幸を無くして幸せを広げるのが広宣流布。具体的には地域の世帯増と功徳増。本部であれ支部であれ、それをまず祈ること。「25の地区を30にしよう!180部の新聞を200部にしよう!地域の広宣流布を進めよう!幸せを拡大しよう!」と祈ることが広宣流布を祈ること。成果増は祈っていても世帯増は祈ってないから世帯は増えない。成果は黒字だが広布は赤字。これを『広布の粉飾決算』という。これではそのうち破産する。幹部は成果の責任者ではない。今は責任者それも下請け・成果の現場監督になっている。それではつまらない。幹部はその地域の幸せの責任者。「我が地域のみんなを幸せにしよう!」と祈ればそれだけで福運がつく。世帯も増える。世帯は祈らなければ絶対に増えない。その上で、成果は世帯増のための手段、広宣流布を祈った上で成果を祈るのはよい。まず広宣流布を祈ろう。その上でそのためのいろいろな活動の目標を祈るのは大事。これらは全部手段。成果は目標ではなく手段。成果が目標になっているから重荷で苦しくなる。

 ブロック1の目楳が出る。これを『B1地獄』という。プロック1がノルマだと思うから重荷になる。ノルマではない。最低ライン。「ブロックで1人くらい不幸な人を救おう!」ということ。これはB担が決意すればおしまい。B長はまあ決意しませんから。B担が決意して折伏ができだとしても功徳は山分けではない。先着1名だけ。みんな「ブロツク1できますように。私はできませんけど。」と祈っている。これは変。これでは誰もできない。「私がやります!」と決意すればできる。

 地区幹部が1世帯以上やると決意すれば地区5は簡単にできてしまう。簡単にできるのに、みんな決意しない。幹部はやらせる信心をしているから功徳がない。信心はみんなで頑張るものではない「1人立て!」です。「私、頑張ります!」という人に功徳がある。そういう人がたくさん生まれれば、たくさん成果が出て功徳をいっぱい受ける。私たちはいろいろな活動をしている。みんなを味方にする運動。みんなを折伏する運動ではない。みんなに学会・仏法を理解させていく運動。誰でも彼でも折伏する必要はない。誰でも彼でも味方にするのは構わない。ここを間違えないこと。今悩みがない人・悩みがあっても悩んでない人を折伏すると嫌われる。結構そういう人を押し込んで折伏しで嫌われていませんか?友達を無くしている。健康な人に薬を飲めと勧めても嫌われる。「いい薬があるから、病気になったら飲みなさい。」と教えておくのは構わない。そこで止めておけぱよい。そこを押し込んでいる。悩んでいる人・不幸な人がいたら救ってあげること。それは相手を救ってあげるためであり、成果のためではない。折伏は簡単。ただ1つのコツは、「不幸な人を救わせて下さい」と祈ること。そういう人がいればその人のことを祈ること。いなくても祈ればチャンスは来る。

 法華経の法師品に「素直に法を聞かせにやるよ」と2ヶ所も書いてある。これが方程式。強く祈れば必ずそういう人にぶつかる。折伏は簡単です。誰でもできる。成果のためにやらないこと。成果はこっちの都合。相手のためにやること。「不幸な人を救って功徳を受けさせて下さい」と祈ること。不幸な人を救うから功徳がある。宿命転換できる。福運がつく。成果をあげるからではない。苦し紛れの分世帯では功徳はない。功徳がないのでつまらない。後には不信が残る。今から祈れぱ秋には間に合う。析伏には方法がない。これは戸田先生の指導。「折伏には方法はないよ!祈ることだよ!」と言われている。成果ではなく、「不幸な人を救おう!」と祈ること。必ずできる。不幸な人がいたら仏法の説明をしないこと。「あなたの悩みはどこから来るのか。謗法から・宿業から来るんです間違った宗教から来るんです。間違った信仰を捨てて正しい信心をすれば、あなたの悩みは解決しますよ!やってご覧なさい!」と言えばいい。悩みに切り込むことと、確信を持って言い切ること。それと体験発表を聞かせること。説得カがある。仏法を聞いても分からないのだから言わないこと。信仰の歓びを語ること。これが一番魅力がある。体験がないから相手が魅力を感じない。同じ悩みの体験が一番説得カある。確信を持って言い切ること。折伏には教学はいらない。相手の悩みが分かれば誰でも折伏できる。

 戸田先生は「広宣流布は豆腐のおからだよ。」とよく言われた。おからは豆腐の絞りかす。おからは目的ではなく結果。豆腐を作ると結果としておからが出来る。折伏して自分が功徳を受け(豆腐1個)、相手も功徳を受ける〈豆腐がもう1個)。結果として、結果が1(おからが1つ)、豆腐が2つにおから(成果)が1つ。今は、おからの専門が多い。寝屋川おから店になっている。みんな栄養失調。うんと豆腐を作って、その結果、うんとおからが出来ればいい。成果は目的ではなくて結果。幸せの拡大が目的。不幸な人を救って、功徳を受けて、広宣流布が進めば結構なこと。おから専門店ではダメ。寝屋川豆腐店にしましよう。戸田先生が「あんたがた、おいしいところを食べて、おからをこっちへよこしなさい。」と言われていた。豆腐をいっぱい食べて栄養をとりましよう。

 いまは栄養不足でみんなヨロヨロしている。みんな疲れています。それでよく頑張りますね。世界一の経済大国日本がガタガタになっている。日本自体が破産状態。企業も個人も、お先真っ暗。

 なぜこうなったのか?日本の発展は広布の前進とともにあった。戦後の歴史をみると、広布が進んでいるときは景気がよい。広布の妨害が入ると必ず不況になる。この繰り返しだった。でも不況はせいぜい2年だった。今は10年続いている。

 平成大不況は平成2年から始まった。平成2年7月16日、日顕がC作戦を立てた。学会を切って広宣流布をやめると決めた。その後から今の不況が始まった。これを「日顕不況」と言う。だから謗法は怖い。最大の根源は謗法。日顕宗の大謗法が不幸の根源。阪神大震災も謗法が根源。だから日顕を倒すことが大事。全部やられているんだから関係ない人はいない。

 しかもその後、山友の策謀で、自民党がくっついて学会をいじめた。だから日本の福運は尽きてしまった。もう日本は政治でも経済でも救えない。先生は「もう1回広宣流布をしよう!」と何回もおっしゃっている。

 今年の年頭にもおっしゃった。「いまこの世の中が乱れている。だからこそ人々を目覚めさせるチャンスなのである。日本人の心に強い動執生疑が起こっているからである。“大悪起これぱ大善来る”である。この1年を社会の大悪を大善に変えていく年として参りたい。我らの勝利以外に日本の夜明けは断じてないからである。と。創価学会が勝って広宣流布を進めるしか日本を救う道はない。だから「不幸な人を救い、日本を救おう。そのために広宣流布をやろう!」と先生はおっしゃっている。先生と一緒に広宣流布をしましょう。広宣流布は最大の口マンです。不幸な人を救い、日本を救い、世界を救おうというのですから、こんなロマンはない。そのロマンが今は手の届かない高級メロンになってしまっている。そうではなく、1人の人を救っていくことが広宣流布。それが日本を救うことになる。だから不幸な人を救うために折伏してきた。

 今、支援活動になっている。先生は、新人間革命の「立正安国」の中で、「政治不信を招いた原因は何か?政治家が民衆の幸福、人間という原点を忘れたからだ。だからといって国民が政治に無関心になって監視を怠れば、政治の腐敗はさらに進んでいく。」と言われている。腐敗が進んで不信が進んだらさらに政治が悪くなっている。

 「人間のための政治を実現するためには、1人1人が具体的に行動しなければダメだ。」とも言われている。また、「創価学会は何の野心もない。ただただ民衆を幸せにしよう。日本の国を平和な文化園家にしようという崇高な精神である。

 広査流布をやらねばならない。民衆を断じて幸福にしていくためには、前進する以外にない。難に耐え、苦労に耐え、一切に耐えながら、人を救っていく以外にない。これが仏法者の精神だ。」と言われている。だから何があっても広布を進めるしかない。今度の支援活動もその一端。よくするためにやる。学会のためにやるのではない。

 公明党のためにやるのでもない。学会の勝利がみんなの勝利だから勝たねばならない。昭和31年の大阪の戦いの時に、公明党も政策も何もなかった。あったのは「政治を民衆の手に取り戻そう」ということだけだった。信心で勝った。今回も同じ。「今の政治では、みんなが不幸になってしまう。もう1回、政治を我々の手に取り戻そう!」ということだけでよい。そう決意して祈れば、心をぶつけたときに相手が動かない訳がない。

 みんなを昧方にしながら、日本のみんなを救うために、私たち1人1人が自覚して起ちあがったときに、政治が変わらない訳がない。公明になってスッキリした。今度は学会の勝利が公明の勝利。公明が勝たなければ、参議院自民党過半数になってしまう。そうなるとやりたい放題になってしまう。公明が勝って、自民党過半数を阻止して、自民党に鉄槌を加えなければ民衆の勝利はない。そのための戦い。

 1人1人がその自覚をしてみんなを味方にする戦い。具体的に「この人を味方にしよう!」と強く祈れば、昧方に出来ない訳がない。先生は「大事なことはただ1つ、勝つことである。人生も広宣流布も、勝つか負けるか、この2つに1つだ。」と言われている。「民衆勝利のために、1人1人が勝利のために、何としてもこの戦いに勝とう!」と決めることが大事。そして12月の座談会では全員が功徳を受けて、幸せコンクール、成長コンクール、大勝利コンクールをやろう。今は、12月の座談会は反省コンクールになっている。それではつまらない。

 先生は「1人1人の勝利が民衆勝利だ。」と言われている。信心で立ち上がればみんなが功徳を受ける。ただ唱題ではない。祈りです。「あの人もこの人も味方にしよう!そして広宣流布を大勝利させて自分も勝利しよう!」という強い祈りで見事な勝利をして、見事な自分自身の勝利の1年間にしていきましょう。そういう意味で、信心の基本をもう1度確認をして、今日からまた前進をしていきましょう。

   平成十年六月二日寝屋川文化会館にて

                        河合師範