小さい頃の記憶

トラウマを挙げればきりがないと思う。

とりわけ今にも影響を与えていそうなこと。
いじめ。実は、していた人間の一人は、私と同じ障害を持つ人間だったのではと思っている。
ドジをして、親に屋根裏に閉じ込められたこと。
諸事情により、とはいえ、一人ではいたくないくらい不安なときに、家で一人過ごした時間。
これらは、いずれも小学校入学して間もない頃に起きた出来事で今も記憶に焼き付いている。
多分、男子らしさに美意識を全く持たなくなったのもこの頃。元々、持っていなかったと記憶しているのだけど。
埼玉に越して、ホームシックにならなかったのは、このことも関係しているかもしれない。
一人遊びをする傾向はこれ以前からあったが、この頃から、既定路線だったかもしれない。

更に言えば、とてつもないドジッ子のため、過干渉を受けていた。比較は、人並みだと思いたいが、受けた。
その中で、自己嫌悪、自己否定が形成されたのだろう。
行動で行わないが虐待者の思考の中で虐待をすることに該当することもあったかもしれない。
教育部の不登校・いじめ体験談を集めた本を読んでいて、涙が止まらなくなる時があったが、そうなった理由は、類似したことを、感じ取っていたことに他ならない。そして、ある意味では、どんな家庭でも起こっていることかもしれない。アニメなどでも描かれている光景であろう。

最終的に試みようとしていることは、自分がどう感じているかを理解して、喜怒哀楽、恐怖、不安といった感情に当てはめて感じ、それらを感情に出せるようになること。
そいて、言葉にする。2人称、3人称は、厳禁
「私は、こう感じる」から始まり、「私は、私のこう感じていることを観察している」と実感として言えるようになれば、完璧。
顔にも出せず、言えない時は、その不快な感情を感じて心の中で、文句を言う。上記と同じように実感として表現できれば、完璧。
もちろん、その道のりは、決して短いものではない。
そこに至るまでの心身の負荷を軽減し向き合えるよう、食事と睡眠時間確保を中心とした生活習慣の改善と日頃の仏道修行が両輪となって、噛みあってようやく行ける段階であり、今はそこに行くまでの道のりを悠然と歩こうと思う。

この手の点は、罰と捉えたり、過去世の謗法として個人を責めたり、自己責任を押し付けるような風潮は間違いなくある。私自身は、それで人を責めるようなことはしなかったつもりである。そうしてふと思うことは、その一方で、自分自身に対してだけはしていたら、結局のところは意味はないなと言うこと。打開しようと言う意思があっても、結果として空回りになる因を作っていないなと言うことに気付かされた。なので、自分自身だけは縛ると言うことも止める。ついつい地がちな人間であるから、やりかける自身との戦いになるに違いない。それも笑ってクリアしようと思うのだ。