ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク監督 ヒトラー、あるいはドイツ映画を見た

これはTwitterで書いた内容を加筆再構成したもの。
すべて丁寧に見たかというと嘘で、長すぎることもあって、ヴァーグナーベートーヴェンドイツ国歌、モーツァルトが流れるシーンをピックアップしてみた。この一連の壮大な虚構を描いたドイツ三部作のうち、ルキノ・ヴィスコンティのルートヴィッヒと対になるルートヴィッヒ2世のためのレクイエムも断片だけ見れたので、そちらも見た。

こちらはパルジファル以上に自分の意見の形成はできておらず、すべては周りの意見の集約でしかない。

印象的な意見を挙げていく。

冒頭、謎の原始の密林のような絵(写真でなく絵!)にぎっしりと字幕が詰め込まれるところからすでに強い意志は始まっている。覚悟しなければならない。これは言葉の映画なのだ。

画面が変わり、妙に閉塞感のある人工的なセットのなかに少女が人形をまさぐっているのだが、そこからは言葉は音声に移る。ほぼ全編にサウンドコラージュが施されていることは見終わって確認できることだが、このサウンドは、ヒトラー本人の演説録音を筆頭に、誰のものかは判別できないがさまざまな人物による演説・朗読、そしてそれに答えるような群集の喧騒。つまりほぼ言葉によるサウンドコラージュなのである。その上にさらに画面上の人物や画面外のナレーションによる語りが重なり、さらにワーグナーマーラーの音楽も聴こえる。

映画的というよりは演劇的なつくりになっている。

「ヒトラーあるいはドイツ映画」第1部・第2部 ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク Credo, quia absurdum.

第1部の副題は聖杯というわけで、映画4部を通じて通奏低音になっているドイツ国歌に次いで、要所要所でパルジファルの楽曲が、ソロ歌手を省いた形で延々と聴くことになる。全編を通じてニーベルングの指輪 第3夜 神々の黄昏からジークフリート葬送行進曲も結構な割合で流れる。ヒトラーの肉声やその側近たちのインタビューはある意味吐き気を起こすくらい人間臭い。


第2部の副題はドイツの夢。

誇大妄想を共有していたというよりも、思いがけずゲルマン民族による完全世界の確立という大きな大きな物語に現実に取り込まれたものが、その過程において様々な悲惨な状況や決断を乗り越えて行かざるを得ないことに対して、自分自身が大きな物語の一部として運命づけられているのだとなんとか納得しなければ生き抜いて行けない、そういう追い込まれた状況であるということに思える。

それはなにも側近だけのことではない。市井のドイツ人も。彼らもユダヤ人の虐殺を目の当たりにしておぞましさを覚えつつも、それがゲルマン民族全体を考えることで犠牲は必要なものだと思い込む。思い込まないと生き延びられない。

そういう状況にまで大きな物語は大きかったのだ。
(中略)
悲惨で苦しい光景や判断を乗り越えて強さを学ぶことが必要だと。
あるいはユダヤ人虐殺に異を唱えた女性に対してヒトラーは言う。
愛ではなく憎しみを学ぶのだと。

そこでは個人の自然な善悪の感情に基づく行動は乗り越えられるべきものであり
全体の目的のために犠牲は必要であることを学ぶことが重要なのだ。
ここまでに人間の精神を追い込むのが大きな物語の世界なのだ。

その恐るべき磁場をこの映画はまた
説話という方法によらず言葉と映像のコラージュによって伝えようとする。
物語の否定。

第4部はヒトラーが残したもの、その遺産相続人は誰か、という刺激的な内容である。

例えばスターリン後のソ連や東欧の管理社会。
大きな物語に基づく徹底した社会管理と情報操作はヒトラーのそれを前例とするだろう。

情報操作と管理を徹底的にやることで社会を高度に統御するのはもちろん「東」のことだけではなく、資本主義社会においても形は違えど同様のことである。

ヒトラーが与しなかった共産主義も資本主義は、皮肉にもヒトラーの遺産によって強大な力を得たのである。

別の視点で、映画や観光で後年に渡ってネタを利用し続けるという資本主義的な遺産相続もあるよ、と本作ではコミカルに映画がどのようにあの惨劇を扱うかを並べてみせる。


20世紀の後半はヒトラーが演出した映画である、とも。
そのことは作品のタイトルにすでに表れているのだが。
「ヒトラー、あるいはドイツ映画」第3部・第4部 ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク Credo, quia absurdum.


この映画の感想を探す中で見つけた風立ちぬの感想で、純粋に創ることを讃嘆する人はファシスト。あの映画は、必ずしも肯定していない、淡々と描いていることから右に非ずとあったがこの映画も同じものを感じる。
ドイツ国内ではファシスト扱いされ、仏英米では逆の扱いをされた節がある。この監督は今もドイツ、バイエルン州在住である。下記の感想その他で見た感想になるが、ここには、戦後ドイツ当然ヒトラーの批判をしながら、タブーへの挑戦がある。

また全編を通して随所に出てくる、この監督の娘の方と思われるアメリ氏が印象的。特にベートーヴェン 歓喜の歌に目を閉じる幕切れは。その前段では、ヴァーグナー パルジファル エンド、トリスタンとイゾルデ 第2幕 愛の二重奏、ベートーヴェン 歓喜の歌のリレーは選曲の点からも素晴らしい。全4部のエンドタイトルはモーツァルト ピアノ協奏曲の第2楽章が使用されている。私は何番かまでは当てられなかった。が曲想からここまではあっていると思う。間違っていたら、ご指摘を願いたい。モーツァルトは夢見るような穏やかな緩徐楽章が使われている印象。ほとんど曲名は当てられない。第3部の後半ではベートーヴェン 交響曲第9番第3楽章がキーとして使われていることが確認できた。シンクロというよりはここでも明らかに異化を志向している。

ジーバーベルクは、このドイツ国歌を用いて、巷でいう戦前と戦後の「断絶」という物語を徹底的に粉砕しようと試みたのではないだろうか。劇中様々な箇所で、ジーバーベルクはナチス的なるものないし後期ドイツロマン主義的なるものの末裔が戦後も形を変えて脈々と受け継がれていることを示唆している。それは「軍靴の音が再び・・・」的な左翼的批判としてではなく、より根源的に、ドイツロマン主義の末路とは何かを問うているのである。

戦前とは「断絶」した戦後民主主義体制の側から、ナチスに対して距離化を計り、ナチスを客体化して「断罪」してしまう戦後の知的エリーティズムを、ジーバーベルクは徹底批判している。だからこそジーバーベルクはドイツロマン主義の側に内在して、戦前と戦後を一貫するものの正体をあぶり出そうとした。そしてそれは、ナチスドイツの敗北、ヒトラーの地下室での拳銃自殺ではない、もう一つのドイツロマン主義の終焉を描くことになったのではないだろうか。

そうしたパラレルワールド的想像力を現実世界への告発として機能させる紐帯が、ドイツ国歌のあの旋律であったのではないか。悪夢にでも出てきそうなほど延々と繰り返されるドイツ国歌。もはや歌詞も旋律もそのすべての意味と文脈を剥奪され、素っ裸にされたドイツ国歌。それでもなお、この曲がまとってきたドイツ人の民族意識は無意識から引きずり出される。永遠に染み付いて取れない、ドイツ民族の無意識。この素っ裸のハイドンの音楽こそ、戦後民主主義体制が蓋をしてきた「戦前と今」の連続性を曝け出す装置だったのだ。

【論考】ハンス・ユルゲン・ジーバーベルクの映画における音楽 − 特にドイツ国歌の旋律について 都市科学研究会ブログ

2012年アテネ・フランセ文化センターで日本語対訳で見た人が羨ましい。ドイツ語・英語の意味がわからないので、雰囲気や映像で魅せられたところくらいしか言及のしようがない。というわけで、引用が多すぎて、自分の意見というにはあまりにも程遠い。この監督の前回綴ったパルジファルと比較してもである。セットのつくり方、人形の巧みな使い方、人と人形の同列の扱いなど、後の映画パルジファルにつながっていく。パルジファル楽曲のウェイトの高さから言っても、この監督はヴァーグナーの中でもパルジファルが好きで好きで仕方ないのだと思う。あの映画はパルジファル愛に満ちている。





日本語字幕かつ1枚ずつフイルムスキャンでデジタルリマスターして4K Blue-rayで出ないかな。