沖浦克治氏にまつわる一連の騒動について7

今まで、この騒動のことについて読んで下さった方々へ、これだけの長さを持つテーマについて、読んで下さり、誠にありがとうございました。これで、このことは、ひとまず終結と致します。


このテーマを書く事につきましては、創価王道を書いている方であり、創価仏法研鑚掲示板の主催者でもあります、小野不一氏から『各人が賛否いずれの立場であっても構わないので、ブログを立ち上げるべきだと思う。掲示板の書き込みは、どうしても「おしゃべり」レベルとなってしまう。個々人が、善悪をしっかりと弁えるチャンスが来たように感じる。』との言葉を受け立ち上げましたが、他にも書きたい事もあります。他にも、思索をまとめる事を優先したいという事もあります。


それでも、この騒動について書いた理由は、この一連の騒動で多くの方を振り回した人がいたことをここに書きとどめることと、誤謬点を発信することによって、犠牲者を1人でも構わないから減らしたい、ご本人が誤謬点に気づいて下さりその点を治して下さればなお良しと考えたからでした。


事実、ネットやリアルであれ、少しおかしな人がいれば指摘する事があると思うのです。


話しは変わりますが、批判のための批判・ためにする批判をして何が楽しいのでしょうか?少なくとも私は何も楽しくはありません。感情を交えての揚げ足撮りもまた然りです。以前にもこのblogで書いた通り、それが嫌いで学会系BBSに書き込みを初めた人間です。掲示板でも、感情的になりがちな面はあったとしても、誹謗はしてこなかったと思います。慈悲心は忘れずに指摘をしてきたつもりでございます。事実この騒動を振り返ってみても、私自身、双方に組織利用の事につきましては、双方に質問を致しました。その時の返事、その後の双方の言動から、私はこうすることを決めました。
博学ぶり・諜報屋・ネット界の言論封鎖・精神障害者蔑視といったことをする気もするつもりもございません。最終的に傷つく方を1人も出さない事が理由ですので。沖浦克治氏の発言・行動に論拠・道理があればみな納得してここまでのことには無かったと思うのです。


おかしいと感じても異を唱えない事は、与同罪になり、慈悲魔になると考えたからでもあります。


慈悲魔とは?:
①慈悲の魔。衆生に一分の慈悲心があるのに乗じてその心に入り、哀れみの情だけを募らせて是非善悪の価値判断を狂わせる魔のこと。
②人を小乗に執着させて正法を破る魔。
*1


『我賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん』
『常処地獄。如遊園觀。在余悪道。如己舍宅。』*2
(常に地獄に処すること 園観に遊ぶが如く 余の悪道に在ること 己が舎宅の如く)
1と申す魔・身に入つて三衣一鉢を身に帯し 小乗の一法を行ずるやからはづかの小法を持ちて 国中の棟梁たる比叡
2山・竜象の如くなる智者どもを一分我が教にたがへるを見て 邪見の者・悪人なんどうち思へり、此の悪見をもつて
3国主をたぼらかし誑惑して正法の御帰依をうすうなしかへつて 破国破仏の因縁となせるなり、彼の簞己・妲己・褒
4姒と申せし后は心もおだやかに・みめかたちも人にすぐれたりき、 愚王これを愛して 国をほろぼす因縁となす、
5当世の禅師・律師・念仏者なんど申す聖一・道隆・良観・道阿弥・念阿弥なんど申す法師どもは鳩鴿が糞土を食するが
6如し西施が呉王をたぼらかししに似たり、或は我が小乗の臭糞・驢乳の戒を持て。*3


ただ、私がとったこの行動が完全に正しいと考えているわけではありません。


沖浦克治氏の内証に迫るものがなくただ「文証・理証」で論じているからであり、それがわかれば沖浦克治氏の我見はすぐ消える可能性を否定致しません。


また、沖浦克治氏がこの一連の出来事を起こされた動機がより単純でより不純でより悪質である可能性を否定致しません。それを具体的に言えば、目立ちたい、名聞名利という動機であることを否定することはできません。そう考えればあまりにも単純で、自分が目立ちたいがために師匠を利用し、御書さえも利用します。言葉をかえて述べてみます。それは、己の栄達の為には全てを利用します。他人の言には絶対に耳を貸しません。その時々に主張が変遷し、己の前言と反する事に気が付かず、その場その場をしのぐことに全勢力を注ぎ込むのです。ですので、明らかな間違いをも別な論理を組み立て、独自の論を展開するようになります。そしてその正当性を証明する為には形振りを構いません。利用してはいけないものまで利用しても平気になります。故に不純であり、悪以前に愚かな人間であります。そう解釈すればこれだけ誤謬点を述べたのだから、沖浦克治氏の発言を徹底的にスルーし、ネットで叫んでも何の価値も生まないことを沖浦克治氏に悟らせることが良いと考えることができます。ああいった人物とは近づかせません・寄せ付けてもなりません。単なる目立ちたがり屋なのだから、相手にしてくれる所を探しまくり、何処もなければ自然と消えます。
こうした方向に誘導することも、一つの手ではないかとも考えます。


悪縁に触れて、六道の衆生が溢れる国土で同じスタンスにいる者同志が"やりあう"事が愚かな事であります。ただ、相手の誤謬点は、一通り、指摘すべきと考えます。

三妙合論と宗教の五綱を心して今、学び直したいと思います。
激論が飛ぶ時であるからこそ、言葉・態度・礼儀は紳士的にする必要がございます。

一旦脱線致しますが、それを考えさせられたのは、多重HNを用いることです。
板の性格によっては、多重HNはタブーの場合が多いことと思うのです。
見方を変えればHNは元々自分のその板でのスタンスを表明するものと考えることもできます。
議論を掛ける時、先ずHNにケチをつける者の意図は明白であり、少年期若しくは青年になりかけの頃に使うケンカの常套手段と捉える人もいることと思うのです。
HNにその人の気持ちが入っているから、尊重するという方もいることと思うのです。
ネットの世界で名前にケチをつける事自体が無意味な事ですと考える人もいることと思うのです。


BBSの文章で一番大切なのは、その書き込みの文章の向こうに何を見るか、そこを仏眼で見るかにかかるのではないかと思うのです。

学会系BBSは、様々な意見はあった上で「叱咤と激励」「学会精神の継承」「創価教学の研鑽」「意見交換・情報交換」等、一人ひとりが、広布の一級闘志と成長するためのエネルギー蓄積の場であるべきではないかと思うのです。


この一連の騒動を通して、仏眼で物事を捉える事ができる人間に、私は成りたいと思います。

引用文献:説教オヤジ・大いに語る82 - けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)
説教オヤジ・大いに語る86 - けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)
説教オヤジ・大いに語る182 - けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)
説教オヤジ・大いに語る186 - けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)
説教オヤジ・大いに語る192 - けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)


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*1:宗教法人 創価学会発行『仏教哲学大辞典』より抜粋

*2:法華経譬喩品第三

*3:新編 日蓮大聖人御書全集 P526