掲示板で受けた叱咤激励1

過去に受けた叱咤激励をまとめてみました。

的はずれとは考えにくいレスから、抜粋したものです。

1つ目は、池田先生のスピーチからです。

師が、固く、深く、青年を信じてくださったように、私も青年の勝利を信じる。
21世紀の広宣流布の全権は、諸君の双肩にかかっているからだ。
ゆえに青年よ! 一日一日がすべて、一つ一つの戦いがすべて、自身を磨き、鍛え、大指導者となるための訓練と知ってほしいのだ。
わが師は、仕事がいい加減な青年を、絶対に信用されなかった。
青年部員の大半は、零細企業に勤め、朝から晩まで汗にまみれる毎日であった。
それでも早朝に出勤したり、夜中に職場に戻って働くなどして、必死に学会活動の時間をこじ開けた。仕事も、信心も、逃げなかった。
その真剣な姿に、上司も、同僚も、やがて信頼を寄せてくれるようになった。
会合に向かう時は、開始時刻が迫ると、「遅れてなるものか!」と、誰もが自然に駆け足になった。
遅れた分だけ、学会の怒濤の前進から外れ、師匠との呼吸がずれてしまうように感じていたからだ。
いかに大変であっても、要領よく楽をしたいとは、誰も思わなかった。
それは、この一度しかない青春時代を、偉大なる師匠と共に、広宣流布の使命に生き抜けることを、最高の誇りとしていたからだ。
何の為、君よそれを忘るるな。

H14.07.19

青年は、どこであれ、自分のいる場所、自分の部署で、「かけがえのない人」になっていただきたい。
わが道に徹し、なくてはならない人物へと自己を練り上げていった人は、やはり人格のうえでも、社会人としての力量のうえでも、使命の人生の完成のうえでも、一つの達成をみている。
そういう「実質的に偉い人」「真実に偉い人」になってほしいというのが、学生部員へのお願いである。

2つ目は、御書と、池田先生のスピーチからです。

「白馬のなくは我等が南無妙法蓮華経のこえなり、此の声をきかせ給う梵天・帝釈・日月・四天等いかでか色をましひかりをさかんになし給はざるべき、いかでか我等を守護し給はざるべきと・つよづよと・をぼしめすべし。」*1


「唱題は白馬が駆けるように悠々と…」

3つ目は、精神医学を引用されていたものです。

「健康な心」とは、です。すでに述べてきたように、「正常な心」とか「異常な心」とは無関係です。ましてや「あるべき心」「模範的な心」などではありません。
中井久夫氏(元・神戸大学精神科教授)は、十数項目あげて、こういう能力、あるいは耐性をもっている人は(心が)健康である、あるいは精神衛生上のぞましいと言っています(「精神衛生上の基準について」『兵庫精神医療』6号)。

そのいくつかを紹介しましょう。

(a)矛盾した考えや感情が同居できること。
私たちの心には「正直」「嘘つき」「克己」「なまけ心」「やさしさ」「残虐さ」「理性的」「感情的」など対立した情念や思考、矛盾した衝動がいっぱいつまっています。それを状況によって使い分けているのです。対立したものを同居させ、都合よく使い分けても、不安にもならず、混乱しない人は、じつは健康な人なのです。矛盾に悩んだり、片一方ばかり集めてしまう人は、不健康な心であり、病気になりやすいのです。
(b)分裂する能力――そして分裂にある程度耐えうる能力。
私たちの人格は本来、多重性をもっています。多重性を発達させるといったほうがいいかもしれません。それも超多重のほうがいい。その場に応じたいろいろな人格になりうることです。職場人格、家庭人格、対子供人格、対配偶者人格など、それぞれちがっていて当然、これがいつも同じ、ひとつだと精神衛生上悪いと氏は言っています。
このことは、世を渡るための仮面(ペルソナ)と言いかえてもいい。仮面を多くもち、うまく使い分けられるのが健康なのです。こういうことが健全だといっているのです。望ましい規範かどうかを規定しているのではありません。カゲひなたのある人、外面(ソトヅラ)がいい人、八方美人などについて、世間の評価は低いのですが、じつはきわめて「健康な心」であると言っているのです。
ことわっておきますが、ダニエル・キイスの『二十四人のビリー・ミリガン』に出てくるビリー・ミリガンのような解離性同一性障害(多重人格。一つの人格があらわれているときの言動を他の人格は知らない、覚えていない)を指しているのではありません。一つの人格のなかにある多重性のことをいっているのです。
(c)両義性に耐える能力。
どんなものにも、二つの意義・面があることに耐えられること。たとえば、自分にとって絶対的でやさしく清らかな母も、男(父)に抱かれる「女」であること、という現実に耐えられる能力です。
(d)可逆的に退行できること。
時、状態に応じて子供っぽくなれること。恋愛中の男女を考えてみればわかります。言うこともやることも、両者とも子供っぽくなれないと、とても恋愛になりません。時に、職場や家庭でも同じです。ただし、可逆的(すぐにもとにもどれる)であることが条件で、非可逆的であれば異常です。
(e)問題を局地化する能力。
自分の「心」「世界」のなかにおこった不安、おびえ、できごとを、なるべく部分で解決し心の片隅におしこめて、全体に波及させない能力です。この有効な手段として「問題を他人のせいにする」という手や「言語化する」(他人に話す、文字にする)手がよく使われます。
このほかに中井氏は、
「問題を未解決なまま保持できる能力」
「いやなことをやれる能力――不愉快にある程度耐える能力」
「一人でいられる能力」
「秘密を保つ能力――嘘をつける能力」
「意地にならずいいかげんなところで手を打てる能力」
「いろんな角度から物をみる能力――相手の身になる能力」
「現実処理能力を使いきらぬ能力」
などいろいろあげていますが、「健康な心」の定義としては(a)〜(e)で十分でしょう。
読者諸氏は少し安心したでしょうか。人間というものが「あるべき(こころの)姿」にいかに呪縛【じゅばく】されて悩む存在であるのかも、おわかりいただけたかと思います。

果たして、これらの言葉を受けて、私は前に進むことができたでしょうか?
少なくとも、生かせてはいないと思います。


矛盾に悩んだり、片一方ばかり集めてしまう傾向は、エニアグラムから性格を書いた時の話しで書いた通り、タイプ4の方はいちいち些細なことでも悩みがちでこのことには葛藤しやすい傾向があるからであります。
事実、この1ヶ月、学会系BBS上でのやりとりは、私が精神的に荒廃させるには、充分な程、殺伐としたことが多かったように思います。
本当に、頭が痛くなったり、眠れなくなったり、現実生活に支障が出るくらいにはなっていたのですから。
今も名残を残しております。


良い勉強になりましたので、決して無駄ではありませんでしたよ。


分裂にある程度耐えうる能力については、タイプ4の方はアイデンティティが揺らぎやすい傾向にあること、自尊心がかなり低いこと、本音でしか語れず、建前がわからないという傾向から、自尊心の低さを克服していないタイプ4の方は、この手の力もない傾向があるように私は思うのです。
自尊心とアイデンティティが欠如しているために、人とコミュニケーションをとるだけでも、端から見てギクシャクしていることを今でも私は、よくしております。

どんなものにも、二つの意義・面があることに耐えられることです。これも、アンビバレントな環境に耐えるのが苦手な私の場合、これもあまり高くはないでしょうね。

可逆的(すぐにもとにもどれる)に退行できることです。一度スイッチが入ったら、周りが見えなくなるくらい集中する傾向からすぐにもとにもどれない私は、これも低いことでしょうね。

「問題を他人のせいにする」「言語化する」これらも、極度に苦手です。

苦手なことばかりやね。

リアルであれ、ネットであれ、今自らが向き合っているところで、全力でやろうと心に決めております。
この決意は人前で話す時はいつも話し、池田先生・奥様にお渡ししたお手紙にも、常に書いてきたことであります。
ただ実際のところ、気質から生じがちな精神的な疲れが、すべてを中途半端にしているかも知れません。
少なくとも、中途半端にしていることを否定する材料は、ございません。

明日は、急遽OFFDAYにすることにしました。
中途半端にしている原因を突き止めて参ります。
まずは朝・夕各30分の御題目から。
そして、池田先生のスピーチと御書を拝して、また一歩前進して参りたいと思います。


にほんブログ村に参加しております。「ぽちっ」とヨロシク!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ

*1:新編 日蓮大聖人御書全集 P1065 3-5行目 曾谷殿御返事