「平和」と「人生」と「哲学」を語る1


学会系BBSに書き込みをする時の注意点を昨日書きました。


少しその事と関連があるところを引いて見ます。

人物の評価について

煎じつめれば、やはり人物は哲学、理念、さらに深き宗教観をもっているかどうか

キッシンジャー:交渉の相手の人物を理解することがきわめて重要です。相手の知性ではなく人格です。

池田:互いに理解し、友好を結んでいうえで、最も身近な人となりというか、人格と傾向生を把握していくのは、外交に限らず、すべての出発点と言ってよいでしょう。
約束したことは必ず実行し、信義を守ることが、相手が個人であれ、団体であれ、また国家間であっても不可欠である。

キッシンジャー:私が人と交渉する場合、時間をかけてその人物を理解するよう努力します。それから用談に入ります。
戒壇の初めには、たいてい、テーマとは関係のない哲学的な問題や歴史的な問題を話しあってきましたが、これは相手の人物を理解するためでした。

池田:煎じつめれば、やはり人物は哲学、理念、さらに深き宗教観をもっているかどうかではないでしょうか。
いかに立場や名声があっても、それが人生の究極の目標ではない。それのみを追う人生は結局ははかない。
反対に、なんらかの深き哲学、思想を持った人は、それなりの深い人生の味わいを知っている。また深い哲学は時と共に、より多くの人々の深奥深く、鋭く光線を放っていく。また人々に無限の勇気と力を与えていくことができるからです。

【「平和」と「人生」と「哲学」を語る 池田大作 ヘンリー・キッシンジャー 聖教新聞社 P83-P87】

相手の人格を判断する時、思想や哲学から対話をしていく中で、相手の本質を見ていくことができます。
そうした、深い対話の大切さについて確認をしあっているように、思いました。


さて、沖浦氏と対話された方の経過を見て参りたいと思います。
小野板の常連他数名の方は、初め、教学の考えの違いを認めながら、対話をされておりました。
沖浦氏は、引き下がることができなくなり、己義に己義を重ねて、独善的な姿勢を示したのではないでしょうか?
今までの言動から、熱原公演への誘導を否定する材料は見あたりませんので、その事についても、一切否定致しません。
沖浦氏は、素直にわからない点を誤れば、対話が成立したのではないでしょうか?
素直に謝れず、己義に己義を重ねた結果が、今の結果に至ったのではないでしょうか?
沖浦氏は、自らの弱点を素直に認めない傾向があるのではないでしょうか?
そして、それらは、教学で論争を交わしたことで見えた、ある意味では、皮肉なことではないでしょうか?

誠実に、質問をしあい対話し、時には、対論し、人を見極めて参りたいと思います。


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