自己変革の心理学 論理療法入門

なぜ思考が歪むのか

まず第1に、我々は生まれてから今日まで、他者に暗示をかけられて成長してきたということである。

第2に、とらわれの第2の原因はshould(ねばならない)とwish(こうあってほしい)の混同である。

第3は、過去へのとらわれ、つまり「取り越し苦労」である。

第4は、自己主張のへのおそれである。他者への反応を気にしていうべきことがいえず、したいことができない。


【自己変革の心理学 論理療法入門 伊藤順康著 (講談社現代新書) 第1章 論理療法とは何か P84-P88】

絶望的な不幸観の背後には、ねばならないとかあるべきといった「べき思考」が存在しているのである。
人間が不幸な局面に出会った時、そこにもラショナル(まともな)反応とイラショナル(おかしな)反応が当然存在する。絶望的な不幸感とは、後者のイラショナルな反応の結果である。論理療法は、「べき思考」を取り除くことによって、絶望的な不幸感を取り除くことができると主張する。


【自己変革の心理学 論理療法入門 伊藤順康著 (講談社現代新書) 第1章 論理療法とは何か P130】

論理療法とは、ひとくちにいえば、神経症的な行動は考え方が非論理的な人間のすることである、というところから出発するものであった。神経症とは、感情(B)が肥大化してすべてを支配してしまう傾向である。
ひろんりてきとはどういうことか。それは、「事実に基づかない考え方」及び「論理的必然性を欠いた考え方」のことである。だから「なおる」とか「まともになる」というのは、非論理的な考え方が論理的な考え方に変わることなのである。
考え方が変わるとは、心の中の文章記述が変わることである。したがって論理療法は、心の中のイラショナル(おかしな)な文章記述を、ラショナル(まともな)な文章記述に変えることが眼目である。


以上のように、論理療法の焦点は、問題の受け止め方、考え方に見られる非論理性の修正、転換におかれる。その意味で、感情を行動の源泉と考えて感情を大正とする方法に対して、もっぱら理性に訴えかける方法である。感情は思考の産物であると考え、思考を変えることによって感情が変わり、ひいては行動も変わると考えるものである。
ではどのように思考を分析の俎上にのせていくのか。それはクライエントの心の中の文章記述、自己会話の中に顕在化されてくる思考・態度の非論理的独断に焦点を定め、それに働きかけることによってクライエントの慈覚や洞察を導き出していくのである。この、クライエントの心の中の自己会話に注目するところが、最も重要な点である。



ここでABCDE理論を復習しておこう。


A (Activating event 出来事)
B (Belief system 考え方、受け取り方)
C (Consequence 結果の意。感情、悩み)
D (Dispute 反論、反駁)
E (Effect 効果)

出来事そのものが悩みを生むのではなく、出来事をどう受け取るか、その受け取り方(考え方、文章記述)によって悩みは生ずるのである。
つまり、AがCを生むのではなく、BがCを生ずるのである。Aに変化がなくとも、Bが変わればCは変わるのである。このBを変えていこうとするのが、論理療法の中心である。

Dは、反論すなわちイラショナル(おかしな)な考え方Bを粉砕する段階のことである。つまり、イラショナルなビリーフをラショナル(まともな)なビリーフに修正する段階である。(中略)これが成功すると行動が変容する。効果Eの段階である。


では、イラショナル(おかしな)なビリーフとラショナル(まともな)なビリーフはどう区別するのか。
まず原理的には、
1:事実に基づくビリーフかどうか(不当な一般化、過度の一般化に陥っていないかどうか)
2:論理的必然性のあるビリーフかどうか(考え方に筋道が通っているかどうか)
ということである。

【自己変革の心理学 論理療法入門 伊藤順康著 (講談社現代新書) 第7章 論理療法のまとめ P170-P173】

心に動揺を感じたら、しばらくの間身を持ってそれを経験する。避けようとしてはいけない。逆にそれに直面し、自らそれを味わうのである。
この心の動揺にしばし身を委ねながら、つぎにそういう感情を変えるように自己に迫るのである。不安やゆううつや、罪の意識あるいは憎悪ではなくて、失望や、後悔や、迷惑やいらだちだけを感じる状態に変えるのだと、文字通り自分に強いるのである。

あなたが自分の努力で、失望とかいらだちの感情だけを感じるように持っていくことができたら、これらの新しい適切な感情を自分の内部に生じさせるために、自分の頭の中で何が行われたのかよく注意して観察してほしい。
自分自身をよく観察してみると、自分のビリーフ(もっと正確にいえばナンセンスな考え―Bの段階)を変化させて、その結果として感情が変化した(Cの段階)ことがわかるはずである。そのおかげで、今ゆううつや、罪の意識や憎悪ではなくて後悔や迷惑を感じているわけである。自分の心の中でどういうことが起こったのか、自分のビリーフにどれほど重要な変化が生じたのかをつぶさに観察してほしい。自分が思い描いた(想像した)不快な出来事(A)に対して、美しい感情(C)が生じる原因になったのは、新たなまともな考え方(B)にほかならないことをよく理解してほしい。


まず心に不安を与えてみよう。つぎに不安でなく不快を感じるように変化させる。そうして、そういう感情の変化を引き起こすために、自分の頭の中で何が行われたのかを詳しく観察し把握する。それができたら、それを再三再四くり返すように努める。さらにこの練習を続けて、この操作がすぐできるようになるのが目標である。


いま述べてきた練習を、今後数週間、1日10分でも続けていけば、不快な事実を想像しても(いやそれが実際に起こったとしても)、単に不快を感じるだけで、決してとり乱してしまうことがない、そういう境地に達することができるであろう。


【自己変革の心理学 論理療法入門 伊藤順康著 (講談社現代新書) 第7章 論理療法のまとめ P174-P173】

不安、ゆううつ、恥ずかしさ、憎悪などの感情(C)にいったん心を任せてみよう。とり乱した心の状態を作り出し、それにしばらくひたってみるのであるのである。
Cの段階で心が動揺している時、その動揺をかもし出すためにあなたのビリーフ(B)のところでは、いったいどういうことを自分に語りかけているかをよく観察しよう。Bの段階の具体的な考え方を把握したら、それに反論(D)を加えるのである。

自分の非論理的な考え方を把握し、それに反論を加えられるようになったら、つぎには自分にどういう感情と行動が表れるのか、一所懸命想像してみるのである


順序だててくわしくいえば、
1:Aの段階の不快な事実についての非論理的な考え方を捨て去って、変わりに論理的な考えを対置すること。
2:Cの段階でもゆううつや憎悪などの不適切な感情ではなくて、不快や失望などの適切な感情をもつこと。
3:とり乱した態度ではなく、事態に対して適切な関心のみをもつようにする。


つまり、肯定的な想像の練習である。


肯定的な思考・想像の訓練を重ねていくのである。そして、事態に直面してもゆううつや自己避難ではなく、すぐに不快と感心のみを感じるようになるまで続けるのである。Eの段階への到達である。


【自己変革の心理学 論理療法入門 伊藤順康著 (講談社現代新書) 第7章 論理療法のまとめ P180-P183】

1―絶対論的思考に対して闘っていく
我々の価値観の中には、健全なものもあるが、非論理的思考や、自己矛盾、偏見など、自滅的傾向に導かれていくような排除すべき思考も入りこんでいる。
中でも有害なのは、「ねばならない型」の思考、つまり「べき思考」である。

多くの感情の障害や悩みを作り出すのが、この「ねばならない型」の思考である。
こういう考え方は、自分で自分の首をしめることになり、精神不安定、自己嫌悪、不安やゆううつの原因となるだろう。
他人や、世間に対しても向けられる。
怒り、憎み、敵意宿を超した敵対感情の原因となるだろう。
ものごとがすべて自分の思惑どおりに動いていくべきであると思っていれば、欲求不満の蓄積、現実からの逃避、自己憐憫、怠惰につながっていくだろう。
こういう「ねばならない型」の思考や考え方は、およそ経験的には確かめえないものであり、すべて独断的で絶対論なものである。そしていずれも、不可避的に感情の乱れと自滅的行動へとつながっていき、最後にはいつもたいそうな泣きごとや、ぐちをいっているしかない破目に陥るだろう。


2―自己評価を絶対しない


3―適切な感情と不適切な感情を識別する
論理療法では、思考、感情、行動のいずれにおいても、適切なものと不適切なもの、論理的なものと非論理的なものを、明確に区別していく理論を重視している。

論理療法では、人間は誰でも、一定の幸福と、苦痛の回避を望んでいるという前提から出発する。そして、その前提とするとする価値を妨げるような思想、思いつき、考え方は、不適切・非論理的であると考え、生存と幸福を増進し、苦痛を回避するのに有益な情報と考え方を適切・論理的とみなすのである。

不適切な感情は、ゆううつや絶望に限らない。そういうゆううつや絶望という感情を引きおこした思考こそ、不適切な場合がある。オーバー・ゼネラリゼイション(過度の一般化といい、自分のいままでの経験を不当に一般化して、そこまではいえるはずのない「結論」を導き出すこと、「どうせ思考」)、ひとまとめ主義、ねばならない型の思考は、不適切な感情を引きおこす元凶である。
われわれは、自分の感情を吟味してみなくてはならない。そして、その感情をひきおこした思考の所までおりていって、それが適切であるか不適切であるかを、吟味しなくてはならないのである。


【自己変革の心理学 論理療法入門 伊藤順康著 (講談社現代新書) 第7章 論理療法実践のためのアドバイス P186-P190】

論理療法では、自分の非論理的な考え方を探し、見つけ出したり、それに反論を加えていくことが肝要である。
反論を加えていくのに、3つのステップがある。<洞察1>
クライエントが、何か問題に直面した時に、その問題は選考する一定の条件によって彦起こされたものであることを理解すること。そして、当面する問題の原因となった条件について理解をもつことである、<洞察2>
我々が人生のある時期から、自己の内部に形成してきた非論理的な考えは、ずっと自分の中に根を張っている。
そしてそれが変わらずに維持されてきたのは、自分自身をそれらの観念で教育し、意識的・無意識的にそれらを永続的させる努力をしてきたからである。そのことを理解することである。
端的にいえば、われわれは自分のもつ非論理的な思考を、くり返しくり返し反芻することによって、自ら強化してきたことを理解するというステップである。<洞察3>
自分が信じてきた非論理的な考えは、自分自身でこれを作りあげ、強化してきたものに他ならないことを理解し、それならば自分に心の乱れを正すには、ほかならぬ自分が考え方を変えることを目指して、着実に力強く努力を続ける以外にないという事実を理解することである。


論理療法は、認知―行動療法の体系をとっている。ということは、自滅的な考えを修正するだけでなく、非論理的な考えにたいして行動をもって反論を加えなければ、人間はなかなか変化しないという立場をとるものである。

あえて行動に出ること、新しい考え方を実践すること、カウンセラーは修正された思考を行動に移すことを課題として課す。自分で論理療法を学ぶ者は、自己課題を設定して行動に挑戦するのである。


書物に限らず、あらゆるマス・メディアによる情報も研究データである。しかし、中でも最も有効な研究データは、人間関係から得られるものである。


なお、さらに異論的に研究したい人にとっては、『人間性主義心理療法―RET入門』(A・エリス、橋口英俊他訳、サイエンス社)、『神経症者とつきあうには』(A・エリス、国分康孝他訳、川島書店)、『論理療法―自己説得のサイコセラピー』(A・エリス他、伊藤順康、川島書店)などが参考となるだろう。


【自己変革の心理学 論理療法入門 伊藤順康著 (講談社現代新書) 第7章 論理療法のまとめ P191-P193】

私は極度のネガティブ・シンキングの持ち主であります。
唯識と論理療法―仏教と心理療法・その統合と実践 - 信心の王者たれ!でも論理療法のことが出てきましたが、この本を読んだ時にこの本は読もうと決めていました。
2時間ほどで、読破しました。

類似の本は、何冊か読みましたが、この本が、1番簡潔明瞭で分かり易いと思います。文庫・新書ではNo.1といって過言ではないと思います。

大学の授業でも習いはしましたが、ようやく、頭の整理ができました。

この本で紹介された本を読むのは、社会人になってからでしょうか。変える時が来たらじっくりと読みたいと思います。

私が過去に経験したことを、この本に書かれていることを実践し、心の闇を燃やして参ります、もちろん信心根本で。

インテグラル思想 AQAL - 信心の王者たれ!で引用した分は、この論理療法のことを前提にして書いているようにも思えます。
そう考えた理由は、わだかまりとなっている感情を、まともな形で放出できるようにする、セルフ・コントロールするという点において、同じ視点に立っているからです。

この心理療法は、クリティカル・シンキングともつながるように思います。
また、この考えは、作戦を立てる時、総括をする時にも有用だと考えます。
なぜならば、作戦で目標を立てた際、その後は、いかにすればその目標を達成することができるのかに移ります。どうすれば勝てるのか、勝つためには、いつまでに、何をしなければならないか、余裕があれば何をすべきか、してはいけないことは何か、どのように日程を組んでいくのかといったことは、イラショナル(おかしな)なビリーフとラショナル(まともな)なビリーフはどう区別する際の基準とおなじことがいえると思います。それを実行する際に、それをすれば勝てるという事例はあるのか、論理的必然性があるのか、仏法に即していえば、文証・理証、なによりも過去の事例から現証があるかないか。

仏法と論理的・科学的思考は矛盾しないというということを改めて実感致しました。


自己変革の心理学 論理療法入門 (講談社現代新書)



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