池田名誉会長の人物紀行 「歴史の巨人」と語る 新聞小説の王者 アレクサンドル・デュマ

若きダンテスは無実の罪で自由も前途も奪われた。許嫁とも引き裂かれ、老いたる父も失意のうちに亡くなった。
だが、奈落の底に突き落とされた獄中で、ダンテスは、思想犯として投獄されていた博学のファリャ老司祭を、師と仰ぐことができた。師は一切の学識を授け、巌のごとき信念と知性を鍛錬してくれた。
「宝とは、あなた(師)がわたしの頭にそそぎ入れてくだすった知識の光のことなのです」(山内義雄訳『モンテ・クリスト伯』第2巻、岩波文庫)と弟子は感謝を捧げた。
「戸田大学」の薫陶が、まさにそうであった。事業の破綻というどん底にありながら、戸田城聖先生は、私に万学を授けて下さったのである。
いかなる試練に会おうとも、仰ぎ学ぶ師を持つ青春は、強い。そこから、すべてを突破する力は生まれるからだ。

【2009.5.26 聖教新聞 3面 池田名誉会長の人物紀行<3> 「歴史の巨人」と語る、以下同】

偉大な師と出会えたことに、感謝。

「若くさえあれば」―どんな時代も「よい時代」になると、デュマは綴った(加藤力衛訳『ダルタニャン物語』第11巻、ブッキング)。青年のバネを深く信じていたのだ。
『待て、しかして希望せよ!」とは、『モンテ・クリスト伯』の結びの名句である(山内義雄訳、第7巻)。
戦争中の重大、この一節を胸に刻んで、私は読了した。

希望を捨てない、時が来るまで耐え抜いていく。

『モンテ・クリスト伯』には、こうある。
「戦う意志をもった人であったら、一大事のときにを一刻たりともむだにせずに、運命から打撃を受けると、たちまち投げかえしてやるものです」」(山内義雄訳、第5巻)
青年ならば―運命に泣き寝入りなどしてはならない。応戦である。反撃である。仇討ちである。この執念でこそ、宿命を制覇する力なのだ。
デュマの『黒いチューリップ』は、世界的な文化人類学者のヤーマン博士との対談でも話題になった。その一節に、「偉大な魂を持つ人は、大きな災害に投げこまれると、哲学の中に、おどろくべき打開策を見いだすものである」と。(『世界の文学』第7巻所収、松下和則訳、中央公論社)。これこそ哲学の深遠な真価である。
「変毒為薬」そして「立正安国」という生命の大哲学を実践しゆく創価の青年は、社会の希望の光源なのだ。

執念を持ってやりぬくこと。

デュマは毅然と叫んでいる。「最後までやらなければならないのです。偏見と戦わなければならないのです。それが私を押し潰すか、私がそれを滅ぼすかしなければならないのです」(小川節子訳『ジョルジュ』)日本図書刊行会)
偏見と虚偽を打ち破り、正義と真実を打ち立てるまで書き続ける。これが言論の魂だ。

皆が気づくまで、言い続ける。書き続ける。

デュマは、ユゴーの厚恩を決して忘れなかった。

デュマは「恩」を重んじた。
あの「巌窟王」は、善良な人々への恩返しの物語でもある。
「悪党への鉄槌」と「善人への報恩」は、正義の両面だ。
権力者の忘恩に警鐘を鳴らしていたのも、デュマである。
「おまえらがたが恩知らずだということは、きみも身にしみてよく知っているはずじゃないか」(鈴木力衛訳、第3巻)とも痛烈に記した。


えん罪による投獄という試練は、歴史上、どれほど多くの正しき人々に襲いかかり、苦しめ抜いたことか。巌窟王の勝利の劇は、正義の闘士への烈々たる励ましだ。
戸田先生は獅子吼された。
「正義が負ければ正義ではなくなる。創価学会は、正義の中の正義の団体である。ゆえに絶対に勝たねばならない。永遠に勝ち抜き、勝ち誇って、人生を飾ってもらいたい」

正義の源泉は教育である。

『三銃士』の主人公ダルタニャンが、その人生の支えとした格言がある。
それは「最後の仕上げが作品の出来栄えを支配する」(鈴木力衛訳、第10巻)。
万般に通ずる道理である。
いかなる戦いも、途中ではない。結論である。最後の総仕上げで決まる。
巌窟王の如く最後まで走り抜いて、勝利をもぎ取るのだ。


ここ数日、少し落ちていた。耐えて耐えて、勝つまで走り抜く!!



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