佐村河内守 徹底視聴 3

このタイトルの理由が、徹底的に聴くのが、おそらく3回目だからである。
メロディが痛切に冒頭から鳴り響く。ザクエンツは少ないものの、徹頭徹尾繰り返される動機。フルートとファゴットで奏されるコラールがブルックナー交響曲第8番アダージョのように、澄み切って鳴り響く。それは、時としてJ.S.バッハのモテットのようにも古雅に聴こえる。このコラールは、以降の楽章でも出てくる。天国的に美しい。意外とモーダルかもしれない。そして、これを聴いて思ったことは、これは「祈り」の音楽なのだということ。自己超越的ではないかもしれないが、夢幻を感じる。
フィナーレのカタストロフは、何重ものパートがひしめき合って重なって聴こえる。結果的に、アヴァンギャルド音楽のようなカオスを生む。最後の「天昇」のコラールに目頭が熱くなる。
ヴァーグネル、ブルックナー以降失われた理性中心主義が生んだ統一が崩壊している中で、それを紡ぎだす凄さ、紡ぎだす姿勢。
形式美で言うと、ブルックナーのメロディの重ねた時のズレからくる対斜は圧倒される。それ以外を比較して、甲乙を、つけることはできない。少なくともそう思っている。こういうのは、聴きたい時に、シャワーを浴びるように聴き、理解できなかったら、理解できるところだけをきいて、時間を聴いてから聴くと、理解がグっと深まる。
この交響曲を、シャワーを浴びるがごとく、ヘビーローテションする時期に入るべき時が来たようである。
願わくば、初演、録音はないが、完成している他の交響曲も聴きたい。
シャコンヌも聴くべきであろう。しかし、これは、金銭的な都合で、先送りになる。図書館にないので、借りようもない。

この後、春の祭典のエンドを聴いていた。ここの金管の咆哮、乾いているけど、叙情的かつウェットにしたら、チャイコフスキー「悲劇」第3・4楽章の激情の咆哮のような調べで、春の祭典は、この咆哮の究極系だと思いながら聴いていた。