佐村河内守 交響曲第1番 読了

買う金額を確保できないため、都内の某書店にて立ち読み。今回で、読んだ回数は、4回。じっくり読んだのは、そのうち今年に入ってからの2回。

BiO HAZARD SYMPHONiE op.91聴き始めるで推測していた、

1990年代から約3年間、民族および宗教音楽と近未来音楽との融合の研究に没頭。この頃に、前衛音楽の効果を吸収したのだろうか。

の中に前衛音楽はあった。きっかけは、本の感想を書いているブロガーの引用でおおよそ確認できていたが、やはり弟の死が原因であった。肉親の死という悲しい出来事に対し、脳裏に走ったのは、ベートーヴェン 交響曲第5番のような美しいメロディーではなく、何もかも破壊し尽くし無に帰す不協和音しかなかったという主旨が書かれていた。この時、彼は、不協和音の解放に目覚めた。もともと短調の曲が大好きであり、中高生の頃には、バルトークも学んでいたようだ。この行きつき方は、新ヴィーン楽派の面々に通じる気がする。楽曲の問題解決は結果論で、社会の不安を表現し尽くそうとした中から表現主義が生まれたように思うからだ。そしてその究極系として、第2次世界大戦後の前衛音楽はある。
また、この頃に、伯父が亡くなり、伯父が残した書物を貪り読んだことも改めて確認した。
上京してから売り込んだ作品には、オーケストラと和楽器が共演する作品が多かったようだ。その特異編成から見向きもされなかった形跡がある。その集大成が、鬼武者 RiSiNG SUNであることも再確認できた。コスモスのサントラづくりに尽力したデザイナーは、その後も全聾になってからも奔走されていたことも綴られていた。当初は、モグリで断られ、鬼武者以降も、あまりに構成が良過ぎて断られる悲劇があったことも。
バイオハザードのケンカのエピソード。難聴を隠すために尊大な態度で意見をしたことが相手を逆なでしたという主旨があった。氏の難聴は当時かなり進んでいたことも、音のバランスで意見に相違が出るのは、想像しやすい。その結果の・・・。プロデューサーが「心の優しいヤクザ」というのも頷ける。中学校の頃、音楽研鑽と共に、ケンカに明け暮れた名残もあったと思う。
鬼武者制作のエピソードは、かなり細かく書かれていた。3ヶ月で作られたこと。実際には、体調の関係でより時間は短かった。妻が、CDを聴いて感動したエピソード、リハーサル・本番収録時・インタビュー時の悲劇は、言語を絶した。その後の悲劇も。
ボランティアで出会ったハンディを背負った少女しおりが話してくれた、「亮と会った」。亮は、氏の最大の理解者であり、本来画家志望だっただろうと氏が推察していた弟の名前。この出来事が、交響曲第1番"HiROSHiMA"を完成させるきっかけを作った。完成後、曲は、しおりに献呈されている。
あまり触れられていないが、氏の奥様も、類稀な理解者である。また、なんと忍耐強いことか。その姿に圧倒された。

氏が述べる「闇の音」は、闇の天才、痛みの王の異名通りの、苦悩から生まれたものであり、それから解放されたらある意味生まれえないものに思えてきた。氏の音楽は、本質的にはロマンティック。交響曲第1番"HiROSHiMA"第3楽章 天昇コラールや、秋桜(コスモス)がわかりやすい。それは、形式と内容の完全な一致を試みた緻密なものであり、ある種の人間愛と、祈り、そして闇と対峙する戦いの音楽である。ゆえに、被災地で「希望の交響曲」と呼ばれているのだと、改めて確信できた。