ブログの方向性

今の路線を変えようと言う訳ではなく。
ふと思えば、師の宣揚、指導のデータベース化を試みたブログは、悉く消えたように思う。知っている範囲だと数箇所くらいしかない。1人は、御書の現代語訳を試みる御老人。私もその方が出入りしていた掲示板に顔を出したことがある。2度と出入りしないし、出入りしても荒れるだけであろうから。著作権に対してナーバスな人に制裁の言葉受けていた記憶もある。ナーバスな人も、完璧かと言うと墓穴を掘っていたりするもので、完璧と言える人には未だ出会ったことがない。
もう1人は、文字通りのデータベース化。こちらは、リンクをしていないし、一度もやり取りをしていない。
この路線の方で、退転して言った方は多い。
包含しさらなる統合の道をとも思う一方で、こうした場で宣揚する時代は、数年前に終わっているように思える。

あるべき方向として思っているのは、
ありのままの記録を残し、業を乗り越えていく記録
信仰から学んだだことを、自分の言葉にして発信すること

これ以外に今意義を感じない。

これからテーマにすることはおそらく、何に憧れ、何を具現化したいか。具現化させるために、走り抜きそれを何らかの形で実現し、自他ともの闇に光を灯していく記録になると思う。
去年6月以降一見何の関係もない音楽をテーマに綴ってきたのであるが、根っこにあるのはこれだ。
描きたいものを描き、それを可能にする生活ライフを、人との距離の置き方がわからずなかなか活動もせずだった人間が、少しずつできるようになり、身近な一人一人に、ひいては社会に貢献していけるようになる。斧氏であれば社会の奴隷と言われるかもしれない。その見方を、決して全否定はしない。その上で言えば、その中で、今の秩序が壊れても、その内実は人災天災を問わない。そうした暗黒の中で、希望の灯を、灯しあっていける人となっていく。
一人一人が持っている苦しみは、その一人一人にとって耐えがたい苦しみに違いない。
心理学、脳科学の発達で、自覚症状、他覚症状それぞれの数値化はこれから、今まで以上に進んでいくに違いない。
それでもなお、数値化で見えなくなることを見落としてはいけない。
自ら乗り越え、その耐えがたい苦しみから光へと導いていく。
そうなっていければいいのだ。
夢に向かい走り続ける中で、そういう風に変容していく一人の人間の記録でありたいと思う。
今日から、その思いを決して忘れずに綴りたいと思う。