2020年東京オリンピック開催に思う

果たして喜ぶべきなのか、悪く考えるべきか。複雑な思いでいる。

It's TOKYO 2020
祝◆2020東京五輪、開催決定!

学会創立90周年の年に、東京オリンピックは開催される。非常に縁深い1年になることは間違いないと思う。開催が決まった9月8日は先生の「日中国交正常化提言」(1968・昭和43年)の日でもある。今年で45年の佳節を迎えたことも意義深い。

その一方で、改憲集団的自衛権、TPP、原発事故といった黒い動きが見えてくる。
今回、一番いいことは、実は、日本の原発の監視が、世界中から事実上入ることだと現時点では思っている。それも、国家機密で、今よりも、報道が、自分たちで不利になることが伝えなくなる可能性があることを考えると暗澹たる思いになる。

海洋汚染も、今年6月以降の汚染水漏れを含めない太平洋汚染濃度も、国際専門機関ASRが算出したシミュレーションを見ると、太平洋全域でほとんど薄まることなく広がり、2021年アメリカ大陸側で、日本の10倍の汚染濃度になるという結果に言葉を失った。WEB上を見る限り、日本の領海取り上げと騒いでいる面々がいることも知っている。
イーストウッド監督が、日本は80年前に戻ってしまったとの発言。宮崎駿が、戦前の日本になりつつあるとの発言。気味が悪いくらい、一致するように思えてくる。

マスコミもそうであるが、人はえてして自分に不利になることは、話さない生き物だ。人であれば、常にそのパラドックスと闘うことになる。
英字ロイターは、日本のマスコミが書いていない内容に関して書いていたりする訳であるが、実際のところ、それらを自分の目で触れるには、専門用語も含めて英語を訳せること、教養が無ければ、極端から極端に振り回されてしまう。ネット右翼脱原発を言っている人間、共産系の人間が綴っている内容を見ていると、その点において、似た者同士に見えてきて、寒気がしてくる。そして私自身、読む力もなければ、それゆえに、双方の矛盾を列挙して昇華していく力も、当然ない。

3S政策といった言葉でわかるのであるが、政治家が、セックス・スポーツ・スクリーン*1で、目をそらさせるということは常套手段であるように思う。その上で言えば、そうしたものを自由に享受する権利は誰もが持つのであるから、侵害されることは当然あってはならない。その上で、享受しつつも、それによって現実に目をそむけてはいけないと思っている。
コンサートも挙げたのは、8月17日演奏を観に行ったときの演奏会場の雰囲気に、映画のスクリーンと同じものを感じ取ったからである。
私が、社会人になってから、仕事廃人になった影響もあるのだが、今年自ら進んでみたテレビは、佐村河内守関連だけである。NHKスぺシャル、東京全曲初演コンサート、金スマ。思えば、今年オンエアされているアニメも月火は、録画しなくても見れるにもかかわらず、何も見ていない。ARiAエヴァスレイヤーズロスト・ユニバースフルーツバスケットプリンセスチュチュのだめカンタービレ以外の作品は、日に日に薄れつつある。
バラエティで腹を抱えて笑う時も時にイイ。そう思う一方で、不幸で笑うネタというのは、誰もが持っているとも思うし、それを自分だけの最高のバラエティにしようと思っている。他人の不幸は蜜の味に、毒されたくない思いもある。身内から、イジリのために、TBS系でオンエアされている「女子アナの罰」を、Youtubeで散々観させられたのであるが、一人二人声で過剰なリアクションをあることを別として、全然面白いとは思えない。ウソ発見器もバラエティのネタとしては面白いかもしれないのであるが、拷問として使われた歴史、ポーカーフェイスできる人間には使えない歴史を関会えると、正直笑えない。私がそうした背景を知らない小学校の頃は笑った記憶があるのだけど、基本的にTVを見ても面白いとは思えない。特命リサーチ200Xとかをよく見ていた人間だけど、今はそうしたものをテレビで見る気は起きないな。

朝からネガティヴキャンペーンのようなツィートを見るのも不快なので、そのほとんどを減らしてみた。異なる面々のフォローを増やしてみた。
そう考えるのも、異なる考えの止揚統合が、私のテーマの一つであるからだ。

*1:映画、TV、個人的には、アーティストのコンサートにも同じ空気を感じる