哀惜、祈り、そこから見える世界と乗り越えていくこと

私は今でも佐村河内守が述べた釣り文句というべき「闇が深ければ深いほど、祈りの灯火は強く輝く」と言う言葉がとても好きだ。
この世界にないのであれば、そう思った方がそれを具現化させればいい、ただそれだけのこと。
そしてその曲のクオリティが高かったとして、年月を経てフォロワーが永続的にいるかはわからないというのもまた真である。

さて、氏の企画書から見る宗教音楽の引用元をこの数日間で聴いてきた。
苦闘に寄り添う調べで思索したことは、異なるアプローチがあるのではないかと思えるようになった。
悲しみにもいろいろな悲しみがある。
苦闘を表現するには、新ヴィーン楽派のアプローチ、ルトスワフスキが試みたアプローチ、そしてアラン・ペッテションがそれぞれ上がるに違いない。
佐村河内守プロデュース新垣隆作品は、調性と非調性の統合に関して言えば、一つの有効な解答だと言っていいであろう。
その上で言えば、この3つのアプローチの統合点はいまだ見えていない。ピッチ・インターヴァル技法は示唆するものとなり得るのかもしれないが。
総音列音階を基に1オクターヴ5n分割したスケールで、短2度、増4度、減5度を置換していき・・・。

祈りの中にも人の喜怒哀楽もある。そして、大自然や大宇宙にも繋がっていく。
透明感溢れる無邪気さを覚えるような屈託のない明るさの中にも深い悲しみを湛えた音楽もある。例えば、モーツァルト 弦楽五重奏曲第3番 ハ長調 K.515 、同 クラリネット協奏曲 イ長調 k.622はそうだろう。

私自身が、こよなく愛するコラールは、ブルックナー交響曲第9番で挙げると
第3楽章で、ブルックナー自身が「生への決別」と呼んだ、ヴァーグナーチューバが奏でる第1楽章第1主題を暗示させる、荘厳なコラール風の主題。
未完の第4楽章で提示される第1楽章のコラールが明るい形で現れたホルンによる第3主題。
この響きに近いのは、交響曲第1番「現代典礼」からだと、第2楽章で第1楽章序奏部の上行動機がファンファーレ風にホルンが奏でる箇所がそれに最も近いだろう。

今、偽りの神話が消えた今、あのポストモダン的な多様式主義且つ破たんなくまとめたことに、敬意を表しつつも、まだまだ知らぬ世界はありそうであり、そこに未開のエリアはあると確信した。
まだまだ組み合わせはあり得ると言うことと言った方が良いかも知れない。
それに気づけただけで、十分だ。