沖浦克治氏にまつわる一連の騒動について12

これで、文字通りの一区切りとなるでしょうか。


理由1:沖浦克治氏の邪義は、優秀な論客が、反論の余地のない明快な数々の指摘をされており、一通り指摘される点はされ切ったことです。


理由2:「ネットでの非難中傷に対して、名誉毀損民事訴訟を一括して起こす予定」と宣言している事。
これだけであれば、そもそも被告の氏名・住所が明らかでない限り、原告は訴えることすらできないので気にする必要もありませんが、そういったいざこざを面白おかしく取り上げる下劣なマスコミ等もいることから、今の時期、下手をすると敵に塩を送る結果にもなりかねない事です。


理由3:沖浦克治氏は、一連の根拠無き私が正しいと豪語する発言から、歪んだ自己顕示欲の塊と友言える人物であること。そして、そのためならば、全てを利用する傾向があることです。事実、御書もスピーチも沖浦克治氏は全て都合よく利用をしております。書き込みを振り返ることもしないために、自らの前言と反する事に気が付かず、その場その場をしのぐことに全勢力を注ぎ込むのです。ですので、明らかな間違いをも別な論理を組み立て、独自の論を展開するようになります。そしてその正当性を証明する為には形振りを構いません。利用してはいけないものまで利用しても平気になります、そしてこうした行動が、沖浦克治氏がサイコパスと言われる理由でもあります。


理由4:沖浦克治氏は既に'書けば書くほど'笑い者の道をまっしぐら、になっております。
言い換えれば、'問えば問うほど書けば書く'の構図になっております。
問う事が正論であればあるほど、裏付けがしっかりしていればいるほど、沖浦克治氏の発言は支離滅裂に見えます。この'支離滅裂'に紛動される者が出てしまう可能性がございます。
邪義を破すことは大事なことではございます。
しかし、問いても叩いても、やかましさを増すようであれば、沖浦克治氏本人を正す行為自体が、'こういう掲示板のような場'では仇になってしまう場合がございます。
書き込みを見る限り、既に何人かが紛動されて沖浦克治氏の肩を持った発言をされている方がおります。


理由5:今まで、沖浦克治氏の本迹論から始まった、沖浦克治氏自身への破折は、多くの方がして下さり、破折をされた方々の勝利と述べて過言では無いと考えます。それは、沖浦克治氏の己義に対する、創価学会の信心と教学が、一人の生命に巣食う元品の無明にメスを入れ、ピリオドを打ったということです。
そして、沖浦克治氏の己義を破折した方がいる掲示板には、もう出て来ることはできません。自分のテリトリーにしかいられなくなった存在です。よって、他で話題にしなければ、現在彼を知らない方は、ずっと知らずに済みます。知らなければ、毒をかけられることもございません。


よって、私は以下のことを提案致します。
それは、沖浦克治氏の徹底スルー、ということです。
新しい事を述べれば、再度の破折は必要になるかと思いますが。
私が思うに、人が受ける1番辛い仕打ちは、誰からも相手にされないということではないでしょうか?
いじめであれ、子どもを虐待することであれ、1番傷つくことは、無視をすることであります。
なざなら、その人を人として認めていないのですから。
自己顕示欲の極度の強い人間が、こうした行為を受けることは、大抵の人よりも、効果的ではないでしょうか?
つまり、ネットで叫んでいても何の意味もない、誰も認めてもないと、悟らせて、気がつけば消えている、そうなれば、現時点で1番平和に終えることができるのではないでしょうか?


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