空と否定―否定における領域の問題・空と自性

この話は、昨日書きました中観帰謬論 - 信心の王者たれ!の続きになります。

仏教の修行の根本は、業(行為)や煩悩を俗なるものとして止滅させること、あるいは否定することである。そのような俗なるものの否定により、聖なるものとしての悟りが顕現するのである。空という五は、元来否定を意味しており、空思想においては、俗なるものの止滅によって聖なるものが現れるための否定を指している。
空思想において否定の対象は(中略)すべてなのであるが、議論の中では否定対象としては世界に焦点があてられる。世界の構造は言葉によって述べ伝えられるのであり、空の思想家にとって言葉あるいは命題を否定することは世界の構造そのものを否定するに等しい否定には一般に命題の否定と名辞の否定との2種が存するが、空思想の文献においてはその2種の否定が明確に区分されており、さらにその区別が空思想の論理学的解明にとって重要である。
話者にとって意味のあるものとして成立していることが否定が成立する前提条件である。すなわち否定は、何ごとか、あるいは何ものか、の否定なのであって、単なる否定は不可能である。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵 (講談社学術文庫) 第6章 空と否定―否定における領域の問題 P122-P123】

命題あるいは文章に表現された否定辞は、命題(あるいは述語動詞)を否定する場合と、命題の中の名辞を否定する場合との2種があるといえよう。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵 (講談社学術文庫) 第6章 空と否定―否定における領域の問題 P124】

命題における否定には2種ある。第1は述語動詞を否定することによって命題を否定する場合と、第2は論議領域の部分Aを否定(排除)してその補集合理的部分非Aを定位させる場合である。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵 (講談社学術文庫) 第6章 空と否定―否定における領域の問題 P129】

パターン3:自性は実在ではないが、諸要素は世間的に有効な作用を有するという意味でぞんざいすると考えられる場合。
パターン4:時制は実在するが、諸要素は非存在あるいは非実在的なものとして考えられる場合。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵 (講談社学術文庫) 第7章 空と自性 P141】

竜樹は空においてすべての「言葉とその対象」(戯論)は存在しないが、止滅へと導かれたもろもろの存在(縁起せるもの)がよみがえったすがたとして「仮説」を認めるからである。この意味では、竜樹の立場はパターン3に近い要素を有している。事実、後から見るように、竜樹の後継者たちのうち、多くはパターン3を有することになった。つまり、(中略)聖なるものとしての空性にいたって仮説が成立する場面はパターン3の要素を有している。


(中略)全てのものを空性へと導こうとした竜樹を祖とする中観派の人々も、恒常的実体としての自性の存在は認めないけれども、眼前に展開される現実世界の有効性までも否認することはもはやできなかった。(中略)7世紀の月称も(中略)、自性以外の諸要素の有効性を弁証しようとした。
(中略)自性は常住なる如来蔵(個々の人間に宿る仏となる可能性)となり、諸要素は客のように偶然そこに居あわせた非本質的な心の汚れ(客塵煩悩)となる。自性は顕現させられるべき「聖なるもの」であり、諸要素は滅せられるべき「俗なるもの」である。
パターン3では求むべき「聖なるもの」は「無」であるが、パターン4では「有」である。「聖なるもの」が恒常不変なるものであり、「俗なるもの」が無常なるものであるというのはヒンドゥー教の根幹でもある。仏教内でパターン4を有する思想の代表は如来像思想であるが、この思想は後世、仏教タントリズムと深い関係を結ぶとともに、ヒンドゥー教的要素をも有していた。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵 (講談社学術文庫) 第7章 空と自性 P142-P144】

「空即是空」、「五蘊は自性(自体)が空である」にこのような解釈があるといいます。

<解釈2> 五蘊は、自性(実体)が空であるが、五蘊の現象(言説)は存在する。


中観論者は五蘊が実体としての自性を有する場合は認めず、実体としてではないが現象つまり言語活動によって仮にその存在が説かれている場面を認めているのである。この解釈2のポイントは、日常の言語活動および言語の対象としての現象世界の成立にある。(中略)この考え方は、かの4つのパターンのうち、パターン3を有するということができる。<解釈3> 現象としての五蘊は自体が空であるが、本質としての空性は実在する。


この解釈に置いては、否定されるべきものは現象として御五蘊である。真如(本質)としての空性そのものは否定の対象とはなり得ず、実在であり、生、往、滅を離れている。(中略)仏教においては如来像思想や一部のタントラ教典に見られる。凍ような考え方は、先述のパターン4を有するといえよう。


すでに見たように、空の概念は「yはxを欠いている」という意味が基本的であるが、「yはxを欠いている」という命題にどのような含みを持たせるかによって、空の思想の構造が変わってくる。「xを欠いている」が「非yはxを欠いていない」を含意する場合には、解釈3となる。この場合の「非y」とは「五蘊(構成要素)以外のものである如来蔵」を意味する。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵 (講談社学術文庫) 第7章 空と自性 P158-P159】

こうした数学的科学的思考には驚かされるばかりであります。私は、好きなことを暗記することは得意な人間でありますが、論理的に考える力は、皆無とさえ思っております。
この記事を書くために、2時間15分ほど、引用箇所を改めて熟読しました。
読んでいて、とても面白い本ながら、まだ創価3代に渡る会長が仰った、まだ筋書きを追って読むことしかできていないことを痛感致しました。

この書を読んでの思索は後日に致します。

この本の覚え書きはまだ続きます。
これからは、チベット仏教における空、天台仏教における空、最長と諸法実相、あとがきに触れてから、私の考えを述べて参りたいと思います。


空の思想史 原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫)


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