天台仏教における空

「一心三観」の「三観」とは、空、仮、中の3つの観点をいう。「一心」とは、我々が現在体験しつつある瞬間瞬間のあり方を意味する。この場合の「心」とは精神生理的な意味の心ではない。一人ひとりが生きているあり方そのものを指している。天台仏教では、空、仮、中は「三つの真理」(三諦)といわれ、この三つの真理を述べているかの『中論』の偈は『三諦の偈』と呼ばれてきた。天台仏教では「三諦円融」という表現がしばしば用いられる。この表現は、空、仮、中の三つのあり方はそれぞれ別個のものではなく、互いに融合しているというのである。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵 (講談社学術文庫) 第11章 中国仏教における空(1)―天台仏教 P228】

天台では「空」と「仮」とは「真」と「仮」として捉えられた。従って、「仮」は悟ったものが語る言葉や見る現象世界のみではなく、凡夫の発する言葉や見た世界をも含むのである。真実そのものではなくそれを仮に言葉にしたという意味で、天台では教えも「仮」に含まれるのであり、凡夫の言葉なども「空」という真理から見れば「仮」であると捉える。
天台において「空」は無というよりは根本という意味の方が強い。様々なものの形や働きがそこから現れてくる根本を空という。その根本においては、それぞれの形や働きは見られないという意味での「無」ではあっても、もろもろのものの元は存する、と考えられる。「空」に至るならば、それぞれのものはその形や働きを鎮めて根本の「空」に帰入するのである。(中略)
天台教学において、「中」とは、「空」と「仮」との調和をいう。つまり、根本としての「空」と、そこから現れてきた現象としての「仮」が矛盾することなく成立している状態を指すのである。竜樹にあっては「仮」と「中」のとはほとんど同じ事であったが、天台にあっては「仮」の意味と「中」のそれとの間には大きな開きがある。
(中略)
要するに、「空」から形や働きが現れるとき「仮」となり、形や働きが隠れるならば「空」といい、この両者が融和している事実を「中」というのである。
天台では「三諦円融」という表現は、「仮のまま空、空のまま仮、仮のまま中」という意味であると説明されるが、「まま」という語の意味は明白ではない。「三諦それぞれが他の諦を含む」ともいわれるが、それぞれが他を含むあり方というのも、少なくとも形式論理的には理解困難である。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵 (講談社学術文庫) 第11章 中国仏教における空(1)―天台仏教 P235-P236】

「一心三観」の「三観」とは、空、仮、中の3つの観点をいう。「一心」とは、我々が現在体験しつつある瞬間瞬間のあり方を意味する。この場合の「心」とは精神生理的な意味の心ではない。一人ひとりが生きているあり方そのものを指している。天台仏教では、空、仮、中は「三つの真理」(三諦)といわれ、この三つの真理を述べているかの『中論』の偈は『三諦の偈』と呼ばれてきた。天台仏教では「三諦円融」という表現がしばしば用いられる。この表現は、空、仮、中の三つのあり方はそれぞれ別個のものではなく、互いに融合しているというのである。
(中略)
天台では「三諦円融」という表現は「仮のまま空、空のまま仮、空のまま中」という意味であると説明されるが、「まま」という語の意味は明白ではない。「三諦それぞれが他の諦を含む」ともいわれるが、それぞれが他を含むあり方というのも、少なくとも形式論理的には理解困難である。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵 (講談社学術文庫) 第11章 中国仏教における空(1)―天台仏教 P235-P236】

天台にあっては「三諦円融」なのであるから、一つのあり方(諦)から他の諦へと移行するということはないのである。換言すれば、「空」も「仮」も「中」も一時点において融合している必要がある。
このような考え方からは行為は生まれない。
(中略)
悟りとか救いとかを追求するのではあるが、「悟りを得よう」という目的意識がある限り悟りは得られないのである。
(中略)
手段を用いて目的を未来に追う限り、悟りの瞬間はやってこないのである。どこかの時点で、つまり、実践がある程度の時間なされたところで、時間を逆転させるとき、目的は突然に訪れる。悟りあるいは救いは、宗教実践にとって最も大切なものである。その最も大事なことを捨てることが、宗教実践における自己否定なのである。
(中略)
天台の思想が近代的な意味の歴史観に対して何を提示しうるかは今後の問題であろう。目的あるいは成果を効率よく達成するための合理的な手段を追求する今日のあり方に対して、天台の思想は「時間の逆転」という観点から建設的な批判をすることができるはずである。空思想の有する自己否定の思想的意義がここに存すると思うのである。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵 (講談社学術文庫) 第11章 中国仏教における空(1)―天台仏教 P239-P241】

日蓮宗の開祖日蓮は、思想的には天台教学に基づいている。天台宗日蓮が奉じた『法華経』は、『すべての生きとし生けるものが仏となり得る』と説いている。この考え方は『すべての生類が仏となることが可能である』とする如来蔵思想とは区別されるべきであるが、すべての生類が仏となることが可能であるというかぎりにおいては如来蔵思想と共通している。如来蔵思想においては、仏性という浄なるものと煩悩等の不浄なるものとの区別がはっきりしているのであるが、『法華経』においては浄と不浄との区別はなく、すべてのものがいわば浄なのである。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵 (講談社学術文庫) 第11章 日本仏教における空(1)―最澄空海 P270-P271】

「諸法実相」という表現ほど最澄の思想を適確に語る言葉はないであろう。
(中略)
元来、現象(諸法)と本質との間には根本的区別がないという考え方を基調として持ち続けてきた仏教は、天台教学という噴火口からその基調を「諸法実相」の思想として思想史の表面に打ち出したといえよう。
(中略)
仏教一般においては、現象世界においては色彩、香り、味、重さなど属性のあつまりなのであって、それらの属性のあつまりなのであって、それらの属性の基体は現象世界の構造の説明のためにはほとんど機能を果たしていない。このように方の「奥に」実体としての基体を認めず、さらに世界が現象として立ち現れていることに積極的な価値を置くとき、「諸法実相の思想が成立するのである。
もしも属性・運動等の方も存在せず、それらの基体としての基体も存在せず、それらの基体も存在せず、世界が無にすぎないと考えられたならば、「諸法は実相である」という思想は育たなかったであろう。
(中略)
法華経』の『諸法の実相(特質)』という表現から出発した諸法実相の考え方は、時代を経るにしたがって「諸法は実相である」という思想へと発達した。この思想はいわゆるインド型唯名論のうち、属性の基本の存在を認めない考え方を引き継いだものであったが、この思想はその唯名論的立場における属性に対して積極的肯定価値を与えた。
(中略)
最澄が重視したこの思想が如何にして現代思想へと作りかえるかということであろう。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵 (講談社学術文庫) 第11章 日本仏教における空(1)―最澄空海 P272,P276-278】


空の思想史 原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫)


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