チベット仏教における空

この話は、おととい書きました空と否定―否定における領域の問題・空と自性 - 信心の王者たれ!の続きとなります。
元々は、昨日の深夜にUPしたものを誤って削除したために、作成し直し、大幅に引用を削除したものとなります。

サキャ派密教教理は「認識の対象として現れたものは心に過ぎない」という前提に立っている。この立場が唯識派のそれに近いことは明白である。心の本質解明第1段階である「心は照である」と知ることは、認識の対象として現れたものを「照」として知ることである。「照」には、対象のイメージを認識しているという意味で、否定的側面も有している。それは「照」という作用がやがては光(光明)ばかりとなると主張するための伏線であると同時に、「心が照であると共に空性である」という相反する2側面の融合を述べるための基礎ともなっている。「俗なる」世界を「聖なる」世界に引き上げるよすがとしているのである。肯定的側面と否定的側面とが融合した心の本質を把握しなければならない。(中略)心は無自性なるもの、つまり恒常的実体を欠いたものであるからだ。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵 (講談社学術文庫) 第10章 チベット仏教に「おける空 サキャ派と空 P209-P210】

ものの本質(法性)は生じたり滅したりしないものであり、最高心理は不変なものである、といわれている。
これはカギュ派においては恒常不変なる根本の存在を認めるようになっていることを表している。また、サキャ派と同様に、心は空性(空)であり、最高心理は光として現れてくると考えられている。(中略)サキャ派カギュ派においては空性自体が1種の実体と見なされる傾向がより顕著に見られる。
(中略)
心は認識作用(照)と空とが融合したものであると考えている。その心において、ヨーガという手段によって、汚れのない法身を体得できるように誓願を立てているのである。(中略)非本質的な誤った現れや煩悩(心の汚れ)によって覆われているので、その煩悩などを浄化する必要がある。これが第1要素の現状認識である。煩悩によって覆われていない究極のものである法身に会うことが第要素の目的であり、煩悩などを除くためのヨーガが第3要素である手段である。
非本質的菜も恩である心の汚れを浄化するならば無垢の法身が体得されるというのは、明らかに如来蔵思想であり、本書の第7章に述べた「自性に関する4つの解釈」のうち、パターン4にあたる。つまり無垢なる法身は、恒常不変の自性に相当するのである。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵 (講談社学術文庫) 第10章 チベット仏教に「おける空 カギュ派と空 P211-P213】

ツォンカパは空を、「yは自性として成立していることを欠く」と理解した。つまり、「自性を欠く」という際の「自性」が「自性として成立していること」に置きかえられているのである。(中略)
ツォンカパにあっては、y(五構成要素)は自性として成立していることを欠いているのであって、自性として成立していないyはその存在が許されているのである。
(中略)ツォンカパにおける「自性として成立するもの」の意味がかなり限られたものであるために、yの指すものの範囲が広くなるのである。実際、ツォンカパの体系にあっては、yとは、(中略)役に立つあるいは意味のあるもの(効果的作用をもつもの)すべてを含んでいる。
(中略)
ツォンカパの体系にあっては、空思想の有する否定の手は、もっぱら「縁起の理法に依らず、因果関係に依らず、独立に恒常不変の実在として存すること」に伸びたのである。その結果、ツォンカパの体系にあっては、我々が目前に見る現象世界やこの輪廻の世界を越えた涅槃が、すべて現実的に有効なものであるという意味でその存在が認められるのである。
(中略)ツォンカパにおいては、もろもろのものの存在は許されているのである。
(中略)ツォンカパの時代の仏教的イデオロギー(社会的に規定された思想形態)は、1つの国家システムの理念でなければならなかった。その理念は、一般的世間的な思惟を伴った普遍的な要素を含む必要があった。その基盤の上に立って、仏教が究極的に主張しようとする聖なる出世間的な悟りが位置づけられる必要があったのである。
一般社会においてその存在が認められている世界や言語活動を、その現実的有効性という観点から仏教の立場から認めたのである。その上で月称が主張するような中観派の空思想を主張しようと下。そのための操作の1つが「自性を欠くこと」ではなく、「自性として成立していることを欠く」を空の基本的意味と考えることであった。
ツォンカパのこの方法は、今日でも有効なのであろうか。この方法は今日においても意義を失っていないと思う。彼の方法は、空思想を唯心的、観念論的なものに終わらせることなく世界の構造に積極的に関わる態度を養うものであった。このようにしてツォンカパは、空思想の近代化の第1歩を踏み出したのである。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵 (講談社学術文庫) 第10章 チベット仏教における空 ゲルク派と空 P215-P220】

次回は、天台教学における、空の解釈を見て 参ります。

空の思想史 原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫)


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