佐村河内守 プロデュース 新垣隆 交響曲第1番「現代典礼」

はじめに、2014年2月8日と11日に、大幅に修正。経歴等削除。また、今後の係争からカテゴリーを新垣隆に変更し、当記事タイトルなども、それに合わせて変更する予定。


この方の異名に、その欺く様から「闇の天才」「悪魔の天才」という言葉がふさわしい。これは、「悪魔の天才」以外は天才と称賛されていた頃から一部で使われていたから移行しやすいだろうと思う。
新垣隆氏が、作曲したと思われるこの曲は、もともと交響曲を書く知性はありながらも、氏名義の作品を聴く限り、書く方ではない。それが佐村河内守氏の抽象的で理解しにくい仕様書の要望に応えるために、ありとあらゆる作曲技法を注いだ結果、交響曲が書かれない時代に生まれたと言う点から類稀な作品となった。


音楽学者、作曲家、指揮者の野口剛夫は、「調性音楽ならではの美しさに基づいた直接的な感情の吐露には人を惹きつける魅力があると思う。しかし、中世ルネサンスからマーラーショスタコービッチまでの過去の巨匠たちの作品を思わせる様な響きが随所に表われるのには興ざめするし、終始どこか作り物、借り物の感じがつきまとっている」「誇り高いアカデミストたちが思いつかなかった、交響曲とムード音楽の融合を、『コロンブスの卵』のように、いともあっさりとやってのけたのではないか」と新潮45で書いたのがキッカケで、新垣隆氏は、謝罪するきっかけになっている。ただし、私自身、この作品の支持者がそうであったように、引用と再構築の基、この曲のスタンスを否定する者ではないし、どちらかと言えば肯定しているので、この論評そのものは私は、好感を持っていない。私は本質的に折衷主義者である。この融合は、佐村河内守氏の発注、プロデュースなしにはあり得なかったであろう。


企画書には、
協和○○対不協和○○と書かれている
祈り部5対5→9対1
啓示部7対3→10:0
受難部3対7(ペンデレツキ交響曲第2番を5:5として)
混沌部2対8(ペンデレツキ交響曲第2番を5:5として)
そして調性・非調性の比率は50:50
グレゴリオ聖歌からJ.S.バッハまでの宗教音楽の技法の全てを、作曲者独自の現代語法により劇化結合させ、生まれた真の宗教音楽。悲哀は全て祈りの中で表現。
祈り部全体の35% 啓示部全体の25%
受難(運命、魔の誘惑、魔の怒り)・混沌部(迷・不安)全体の40%
協和優勢は祈り・啓示部。それ以外は不協和優勢。
祈り・啓示部は、人。受難部は魔。混沌部は人・魔。
楽曲の各部分にそれぞれ、「祈り」の部分には中世ポリフォニック確立前の音楽や、ビクトリアの「レクイエム」、バードのミサ曲、グレゴリオ聖歌が、「啓示」の部分にはバッハの「4声コラール集」と「ヨハネ受難曲」、「受難」の部分にはモーツァルトの「レクイエム」、オルフの「カルミナ・ブラーナ」、ペンデュラム、「混沌」の部分には「特にあてはまる例無し」、その他ペンデレツキなどと、作曲家名や作品が指定されていた。
最低限の10のルール
1.中世音楽的な抽象美の追求(人間的感情と美を排す)
2.上昇していく音楽(紆余曲折なドラマはありつつも)
3.受難部の楽想は宗教的アレグロ30%、ペンデレツキ70%の割合の融合。
4.受難部の不協和使用はペンデレツキの2回増強し狂暴性と神
5.受難部・啓示部は神聖さを決いて失わない(不協和使用箇所
6.受難・混沌・祈り・啓示の4つの主題で展開される特種な
7.それとわかる教会フレーズ(修辞の休止)は、独自の現代的語法に変化
8.祈り部は中世ポリ技法を独自の現代語法と融合させ、中世宗教的無限旋律
9.3管編成で書く(時間として74分)大作
10.終結部の天昇コラールは4つの主題の統合(対位法の奇跡)壮麗極まりなく
なお、ここでは、古典派からロマン派がごっそり抜けているのが個人的には、大笑いのポイントである。
よって、これらの要素を、交響曲として形作る際に、ベートーヴェンブルックナーマーラーショスタコーヴィチを参照したと言う方が正しそうである。読んで考えたことは、よくまとめたなという印象。それ自体が奇跡と知ろうとは思ってしまうが、新垣隆氏御自身は、芸大出ていれば作れるとのこと。つまり、やろうとしなかったことに取り組んだことへの賞賛が大きいと言う印象を改めて持った。


技術点として高く評価されている点は、
おそらく伊福部昭管弦楽法を血肉にしているような効果的なオーケストレーション。これは、映画音楽的と称された理由の一つであろう。ゆえに、メシアンドビュッシーラヴェルストラヴィンスキーバルトークマーラーR.シュトラウスショスタコーヴィチ辺りのオーケストレーションが見え隠れするのはその為。
徹底された主題労作、ポリフォニックな展開。美しいコラールのメロディ。
シュニトケ同様○○風が混在するポストモダンなところがありながら、全体を見渡せば緻密で、破たんはないこと。
緻密でありながら、パッションにも事欠かないその煽情性が、人に感動をもたらしている。

以下、CDの楽章解説と補完として佐村河内守展示で手に入れた野本由紀夫氏の解説を基に引く。

第1楽章
序奏部を伴う展開部の無いソナタ形式
「アンダンテ・テネブローソ(暗鬱なアンダンテ)」4/6拍子からなる序奏部はティンパニのロールと共に低弦の嬰ヘ音がオスティナートのリズムを刻む中で開始。その展開は増4度で満たされている。第2楽章冒頭古んで登場する跳躍上行する動機や第2楽章で逡巡するようなイメージを与える三連符など、後の展開に重要な動機がいくつか現れた後、次第にリズムの細分化された動きが登場し、緩やかな起伏を伴って「ぺザンテ(重厚に)」2/2拍子の第一主題部に突入する。
この作品で登場するモティーフは30近く。
第1楽章第1主題2:55〜登場するモティーフ半音ずつ下行する音型。「運命」と氏は読んでいる。また「悲しみ」とも。このモティーフは、バロック―古典ーロマン派でよく使われているとも。
木管と弦のユニゾンで、悶え苦しむような第1主題が、響くと同時に、「運命」を感じさせるような金が叩かれる。この主題ハ音上で登場するが、調性は曖昧で、すぐに二短調の「アダージョ」へと変形され、また嬰へ単調の「ポーコ・ピウ・モッソ」で、速度を上げ跳躍を大きくして本格的な運動を始める。ドンドン変形され、最終的には、「アレグロ・コン・プリオ」による恩恵として活発音楽が進んでいくが、主題がいったん最初の姿を取り戻したあと沈静。2/3拍子でクラリネットファゴットに「コラール」と題された「レりジョーソ」の敬虔な第2主題が変ロ長調で現れる。この部うbンの音楽もすぐに変形されて3/4拍子の「アンダンテ・グラ―ヴェ」となり、この不安感をあおるような音型が執拗に繰り返されながら、次第に西部を増やし、リズムを細分化しながら大きな隆起を形作っていく、巨大なクライマックスが築かれた後、ffで第1主題が高らかに奏されると再現部。これが「グランディオーソ(壮大に)」の際教相による7オクターヴに渡るハ調和音へと高まると、序奏の上行動機を含めたいくつかの動機がそれを打ち消すように楔を打つ中、静かに消えていく。

第2楽章は自由なロンド形式。「死の輪舞」的世界によって楽章が構成されている。
第1楽章で登場した主題や様々な動機が再登場し、更に新たな動機が加えながら進められる。
序奏部が置かれているが、この部分の音楽が楽章中で、2度回帰し、その度に絶望感が助長される。
序奏部分で第1楽章の動機に加えてアr多々な動機が登場。冒頭は「アンダンテ」により、第1楽章序奏部の上行動機がホルンにファンファーレで現れるそれに続いて、第1楽章第2主題に関連する哀願を湛えた動機がオクターヴ・ユニゾンの強い線でクラリネットに表れ、それに木管の新たな動機が続いて、絶望感を煽る。第1楽章第1主題が、弦に静かに表れる。それは慰めと諦観に満ち溢れた。ポリフォニックに展開され、木管に「アンダンテ」で三連符を伴った新たな動機が登場。もう一度ファンファーレが鳴らされるところで序奏が終わり、ファゴットが第1楽章序奏部ノリ涼むに似たオスティナートの上でポリフォニックに絡み合った後、再び第一主題が導入される。第1楽章の第2主題も、まずは静かに「アンダンテ・センプリーチェ(素朴なアンダンテ)」で現れるものの、すぐに弦で競争され、平穏は崩壊する。
「パティメント(苦悩)」で大きく嘆くような下降動機が登場し、センチメンタルな表情も交えて、しばし互いに動機を違えた短い部分が明滅するように交替し合う。私自身の個人的な考えではこの辺りは、ブルックナー交響曲第8番第3楽章の主題交代になぞらえることが出来るように思う。ただし、ゲネラルパウゼなし。
第2楽章12:50から登場する激しいリズムに乗って現れるチェロのメロディ。悪魔の音程=トリトヌス。三全音。第1楽章第1主題もこの音程が組み込まれている。ここでは一度壮大に盛り上がるが、長続きせずに、「テンポ・プリモ」でこの楽章冒頭の序奏部分の荒涼とした風景が、今度はチェロに疲れ果てたように戻り、様々なエピソードが表れては消える。この点も、数少ないブルックナー緩徐楽章風の展開だと私は考える。
「テント・モルト」で始まる弦楽合奏は、哀愁感漂う和声やすすり泣くような高音源のメロディが特徴的で、大きな嘆きのモティーフ、第1楽章第2主題の断片、また第1主題も加わると言った風。
第2楽章23:12のトロンボーンから始まる金管楽器群のコラール。「a cappella」という標語が書かれている。
トロンボーンは古くから教会で成果の伴走に使われていた。グレゴリオ聖歌は、言葉の音節の数がそのまま自由な拍子になってメロディを形成。それを彷彿とさせる。最後のフェルマータの記号も、バッハのカンタータなどと同様、フレーズの終わりの意味。神との対話祈りの音楽。
この後、ホ短調の主和音とffによって導かれ、絶望を感じさせる鐘の音が2度鳴る。fffで頂点を迎えると、すぐにppとなって嘆きの下降モティーフが登場。低弦で第1主題が静かに流れ、それが低音のホ音に落ち着くと、ファゴットとハープが「ぺザンテ」と記されたppで2回、すべての動機を制するように和音を挿入する。

そして第3楽章。自由なロンド形式
4/4拍子の「アレグロモルトテンペストーソ」で力強く開始。弦の活発な動きの上に輪郭のはっきりとした動機が高らかかに鳴り響く。第1主題も、勇壮に登場。第2主題で聴かれた付点音付きのリズム・オスティナートのモティーフが再登場するが、それは第2楽章序奏にてクラリネットで奏されたモティーフの変形とともに、より闘争的に。
第1楽章の第2主題、第1主題も回帰するが、弦の最高音と最低音へと乖離した嬰ハ音の中で、静謐な世界へ。様々なモティーフが断片的に聴こえる。私の個人的見解になるが、この回帰の雛型は、ベートーヴェン「第九」および、ブルックナー交響曲からであろう。
第2主題も木管で、コラールのように、清らかに響く。
アレグロ・エネルジコ」で最後の確固たる闘争が繰り広げられる。16分音符による反復音型上で決然と奏される様々な金管のメロディは、巨大な敵を前にしての英雄的な崇高さ峻厳さを備えている。
第3楽章11:55の「アジタート・トリオーソ」苦しみの絶頂=カタストロフ。ここでは先ほど出てきた「戦闘」のモティーフが、変形しつつ圧縮され、一方では著しく拡大されて、同時重ねで進んでいく。静まり、現れるのは、第1楽章のコラール風の第2主題。
「マエストーソ」2/2拍子から「グランディオーソ」4/4拍子へと続く壮大な音楽は、いったんppppで落ち着きをみせた後、トランペットによるfffのファンファーレに導かれるように登場する、第1syつ台に基づくフガートを経て、巨大な対位法的労作部分に入る。
ロ音によるトレモロが続く中、第2楽章序奏にてクラリネットで奏されたモティーフによって不安材料を残しながらコーダ部分が開始されると、クレッシェンドの中で不安を払拭するように、ブルックナー的な息の長い雄渾の流れが音楽に表れる。一瞬「レント」のホ長調で、苦悩の時代を回想するように嘆きのモティーフ部分が挿入される。
そして天昇コラール。
20:56で出てくるここで使われているメロディは結果として、マーラー交響曲第3番終結部と酷似している。
ここでヴァイオリンが弾き始めるメロディは、第2楽章で「苦痛」という標語で現れたメロディの転調された形である。「苦悩」とい「希望」は表裏一体。仏法に置き換えれば、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」と考えることが出来ると思う。
ここは、最後までホ長調で書かれている。ホの属音に当たるシの音がコントラバスで奏でられている。ここでは、主音のミに移るのを待っている特別な役割がある。この解説では書かれていないが、トリスタンとイゾルデは、この移る行為を、極限まで遅らせ主音の周りをグルグル回るように和声を構成している。後期ロマン派音楽の常套手段ともいえる。
22:56にクラリネットと弦楽器に登場するメロディの最初の4つの音。バロック時代から使われる十字架音型。普遍的な「救済」の象徴。この時に、コントラバスの音がミになる。
救済に手を伸ばすように上を向くメロディは、しかし、それ自体下に引き戻されながら進み、さらに低弦には相反する下行音型が表れる。人はまだ苦難の中にあって、救済への希望の光を見出すさまを表す。
そして希望の象徴のように鐘が鳴り響き、終わる。



発注内容は、なんと中世からJ.S.バッハまでの教会音楽、モーツァルト「レクイエム」、カール・オルフカルミナ・ブラーナ」、ペンデレツキ交響曲第2番「クリスマス」、あろうことか私自身は聴いたことがないロックバンド「ペンギュラム」が入っているにもかかわらず、ベートーヴェンブルックナーマーラーチャイコフスキーショスタコーヴィチの言葉が一切出てこない。
交響曲を作るに当たり、交響曲の傑作に触れながら、その中に当初の注文としてあった教会音楽、ペンギュラム、ペンデレルツキ風といったものに答えたのだろう。必然的に、シュニトケ風の多様式主義の音楽、引用音楽にならざるを得ないと言う訳だ。

オーケストレーションは、楽想で、マーラーと言った後期ロマン派を思い起こすものを除けば、ストラヴィンスキードビュッシーバルトークラヴェルを核に、メシアンを参照にしたものとなっている。
主題労作は、ベートーヴェンマーラー半々に、多様式主義の旗手、シュニトケが雛型になっている。
極めてポリフォニック。後期ロマン派風のメロディが出てくること以外は20世紀的。佐村河内氏がイメージしたのは、不協和音に満ちたグレツキ、ペルトのように思えてきた。
J.S.バッハ風のコラールは、マーラー交響曲第6番に見られるが、そのアイディアを借用しながら、よりそのままだったのではないだろうか。

交響曲の歴史に対する日本の答えではないだろうか。フランス音楽に対する武満徹、前衛音楽に対する松平頼暁と言った人たちと対になるは、私の私見である。

氏が述べた、「闇が深ければ深いほど、祈りの灯火は強く輝く」という言葉、心に光を灯す音楽、ここに焦点をあてたいと思うのだ。これらの発言は、売り込むための偽善であったか可能性が今となっては高い。その上で言えば、私が、そう感じたのは確かだ。何度も聴いて、苦楽をこの曲と過ごす中で、私の中で決して忘れられない曲となった。ヴァーグナーの毒にかけて佐村河内の毒と書いた方を見かけたが、私も同意見である。






ここからは、私が感じ取ったことを書こうと思う。
第2楽章から。序奏部終わり6分45秒付近から奏でられる雄弁なブラスのファンファーレが個人的には心を打つ。8分56秒から奏でられるフルートが主旋律を奏であるコラールそしてトロンボーンから始まる「祈り」の音楽。この辺りは、心が沈んでいる時に、何度も救われたことは忘れられない。
終わりの響きは、脳波誘導SoundのVantageQuestの響きに通じる。ここで、この響きを導くあたり、現在世界最高の天才No.1とゴーストコンポ―サー騒動が起こる前に言わしめるところではないだろうか。
闇の音、これは私が、ワーカー・ホリックで、発狂していたころ、ピアノの発狂から、ガラスが割れる効果音に移って行く、聴くだけで身も毛もよだつ
ような。ここで語られている闇の音は、じわりとじわりと淡々と、諧謔は一切なく、恨み節もなく、奈落の底へと落ちていく、寒さで体が折れて流血する姿を描いているようでもある。
そして第3楽章、祈りの安らかなコラールがとても印象的。マーラー交響曲第3番のフィナーレに似た印象を与えるフレーズ。このエンドに向かっていく展開は圧巻ではないだろうか。この曲は、このコラールのために当初聴いていた。最初のカタストロフは、抑圧している感情を爆発放出させるのにとてもいい。

私にとっての交響曲の最高傑作は、ブルックナー交響曲第9番に変わりない。フィナーレが未完なので、その点ではブルックナー交響曲第8番第4楽章。といいながら、SMPC最新版の交響曲第9番第4楽章は、第5番第8番を越えると言うのが、私自身の私見である。フラグメントで、交響曲第5番の対位法的労作は一通りされているので、第5番は除外。そしてモーツァルト交響曲第41番「ジュピター」
それ以降の中で、とりわけ優れた形式美を持った作品であると、個人的には、騒動後も聴いて変わらなかった。少なくとも、新垣隆氏が、心血を注いだことには変わらないと考える。

iQ180の天才も離散した中で聴いていて思うことは、シュニトケの言う大衆音楽と芸術音楽の融合を結果的になし得たのかもしれない。


追記:当ブログ、特に佐村河内守関連のコメントに関する注意書きを読んでからのコメントをお願いするものである。ステハン、名無し、およびファンの中でも盲目的なものは、すべて削除とする。ご了承願いたい。