KORNGOLD SCHOENBERG 映画音楽の黎明 表現主義誕生前後

タイトルについて、悩んだのであるが、これが見出しとしてはわかりやすいかなと思っている。

亡命ユダヤ人作曲家と映画音楽の成立史 ―初期ハリウッドから東ドイツへ

この論文は、私がシェーンベルクについて、調べていく中で偶然見つけたもの。私より、少し年上の方の、博士論文のようだ。

興味深かった言葉(各章のタイトルと言ったものも含む)をあげていくと、

『娯楽と切り離された「芸術」を志向した芸術家や批評家がいる』
『20世紀に入ってからも聴衆の多くはロマン派の音楽やオペレッタなどのレパートリーを享受していた』
『「ノイエ・ムジーク」批評家による批評家のための音楽』
『現在、「ノイエ・ムジーク」が12音列技法や無調といった作曲技法と結び付けて理解されているが、(中略)当初の「ノイエ・ムジーク」は、より広い意味を持っていた。(中略)シェーンベルク作品に見出した『新しさ』は、後期ロマン派を前提としたうえでの『新しさ』であって、何か未知の可能性を秘めている可能性があるという曖昧模糊とした予感から想起された「新しさ」であった』

(要旨、文章は本文ママあり)この論文を読み進めると、1922-25年のウィーンとプラハの両都市を通信とした2つの音楽雑誌の間で起こった「ノイエ・ムジーク」をめぐる議論から、「新しい音楽潮流」として売り出すためにいう考え方があり、その結果「ノイエ・ムジーク」を「アンチ・ロマン主義」という立場と結び付けて解釈し、作曲技法上の「新しさ」を問題とした陣営によって、今使われている「ノイエ・ムジーク」に変わった。
この議論が起きた理由は、ワーグナーエピゴーネンの作曲家、R.シュトラウスコルンゴルト、シュレーカーといった者たちには、音楽史上の発展性を望むことができなかったために、音楽学者や音楽批評家たちは自らの手で音楽史上の「新しさ」を自ら発見し、議論する必要があったこと。過去の偉大なる音楽史のなかに「現代音楽である20世紀初頭の音楽を取り入れるために説得力のある「アリバイ作り」必要不可欠だった。結果として「ノイエ・ムジーク」は音楽学者や音楽批評家たちによって戦略的に利用された。シェーンベルクの作品の「新しさ」は、これまでにないおあつらえ向きの「出来事」だった。
『この事実こそが、「ノイエ・ムジーク」の成立によって20世紀初頭に「芸術と娯楽の分裂が起こった」とする定説を導き出すきっかけとなったのである』


ここまで読むと、学者・批評家たちの定義そのものの、いい加減ぶりにあきれ果てる。
最終的に受け入れたシェーンベルクも、我こそ、ロマン主義の正統なる後継者を自負していたし、シェーンベルクの音楽に異を唱えた若手作曲家も「ノイエ・ムジーク」とみなし、表面的な作曲技法上の「新しさ」ゆえに「ノイエ・ムジーク」であるとみなすような音楽批評家をシェーンベルクは批判していたようだ。
シェーンベルクの定義する「ノイエ・ムジーク」は、「新しい思想」を持った音楽であること。その「新しさ」とは、伝統を受け継ぎながらも思想的、理念的レベルでの「刷新」を意味する。
しかし、「真面目な音楽」と「娯楽音楽」にの分裂は、19世紀ドイツ語圏は、始まっていたとある。冷静に考えれば、ベートーヴェンは、当時の聴衆の趣味からは、かけ離れていた。そのこだわりは、ある種の芸術至上主義ともいえる。と考えれば納得がいく。
もちろん、ベートーヴェンは、生きていた当時当然「現代音楽」である。

『「現代音楽」現在のように「わかりにくいもの」となったきっかけの一つは、20世紀初頭にシェーンベルクが行った無調や12音技法と言った音楽的刷新にある』
この論文に綴られている通り、敷居の高い演奏会、求められる聴き方について行けなかったに違いない。
『そして、「現代音楽」の価値は音楽批評家が決めるという前提が作り上げられ、「大衆受け」よりも「音楽批評家受け」を狙わなければ「現代音楽」は認められないという状況が生まれたのである。』
オペラは、そうした他の音楽と違い、上演のコストが高いために、逆に「大衆受け」が求められた。
そう考えれば、前衛音楽以外を中傷した音楽批評家が幅を利かせた戦後のウィーンでコルンゴルトが認められなかったのは当然のことだったのだ。ゆえに、大衆受け自体はよかった理由がわかってくると思う。
そう、彼は、ナチス以降も、当時の音楽批評家たちによって、抹殺されたのだ。そしてそれは、シュレーカーも、ツェムリンスキーも、
R.シュトラウスも、レーガーも、古いスタイルを貫いた作曲家はこうしてみんな潰された。力と精神があっても認められない、晩年のベートーヴェンより風当たりが強いかもしれない。

そして、この後、R.シュトラウスや音楽におけるユーゲント・シュティール様式の作曲家へと移る。


この当時の「後期ロマン派の音楽」は、「娯楽音楽」として認識されていた。当然だと、思う。そのかなり多くはオペラであるからだ。オペラは、バロック時代以降の大衆音楽の中心でもあったので、ある意味妥当だと考える。
特徴的な音楽語法とテクスチュアは、
『「調性と結びつきが強い全音階のメロディ」「冒頭と末尾は主和音で構成され、その間の和声と主調と関係の薄い調の和声があえて使用される。結果として響きは分厚い」
「動機は有機的な発展をするというよりもむしろ織物のように織り込まれたり、ライトモティーフ的に使用されたりする。オーケストレーションに関しては、大編成による豪華で色彩的な響きが好まれ、装飾性の高いハープやチェレスタなどが好んで使用された。』
シュレーカーは、オペラの中の響きの役割について「いかなる動機的添え物ももたない純粋の響きは、慎重に用いれば音楽劇の最も本質的な表現手段の一つであり、感情を伝える無類の方便である」
皮肉にも、古典派や、ロマン派までの音楽と違い、「過剰なアレンジ」と核となる音楽ジャンルがないことで、上演されづらかったのだ。

その後、初期ハリウッド音楽でコルンゴルトの音楽が成功した理由は、過酷な労働で空虚になった人の心を取り込むことに成功しただろう。過去へのノスタルジーであれば、コルンゴルト「死の都」、シュレーカー「烙印を押された人々」も該当すると思う。この2作も、第一次世界大戦後の昔を偲ぶ民衆の心をつかんだ作品であるからだ。