最近、聴いていたもの。そして、そこから歴史を振り返る

最近、折に触れているクラシックは、それぞれがまったく正反対で、相互補完するような作品たちだ。

クラシック音楽における古典派音楽の集大成者としてのモーツァルト
なぜ、集大成者なのか。
それは、とりわけザルツブルクに居を構えていた頃のモーツァルトと、交響曲第5番を作曲した頃のベートーヴェンを比較するとわかりやすい。

モーツァルト 交響曲 第29番 イ長調 K.201 小ジュピターとも称される、おそらくザルツブルク時代に書いた最も形式的にカッチリと書かれた作品。

Mozart - Symphonie Nr.29 A-dur,K.201 complete

モーツァルト フルートとハープのための協奏曲 K.299
モーツァルトの作品で、最も典雅、優美な作品。音楽におけるロココ・ギャラント様式の極致。

Mozart - Konzert harp,flauto&orchester, K.299 complete

そして、ベートーヴェン 交響曲第5番 ハ短調 作品67
22分40秒から怒涛のフィナーレに切り替わる瞬間が圧巻。池田先生が一番好きな音楽の一つだ。佐村河内守が、規範とし超越しようとした作品の一つ。そして、このフィナーレ冒頭は、デジタルCSアニメチャンネルでの銀河英雄伝説のCMでも使われていて、このアニメの選曲センスが嫌いで、嫌っていた時期がある。衛星中継だとゲーテメダル授与式の映像冒頭でも使われていた。シンクロ率の高さに圧倒されたのが、記憶に新しい。余談になってしまうのであるが、私がお会いした常勝関西さんが、一番好きな音楽の一つでもある。

Beethoven: Symphony No.5 complete

曲の形式は、交響曲で比較すると、いずれも急-緩-舞-急。
冒頭とフィナーレ:両者ともにソナタ形式
第2楽章:モーツァルトソナタ形式で、ベートーヴェンは変奏曲形式。
第3楽章:モーツァルトメヌエットベートーヴェンスケルツォ
ここまで、形式で見ると、第2-3楽章で異なるが、緩徐楽章こと第2楽章では、ベートーヴェンの師ハイドンは、変奏曲形式で書いているし、第3楽章の舞曲では、スケルツォに近いメヌエットをよく用いていたし、交響曲と同じ楽章構成をとる弦楽四重奏曲では、実際にスケルツォを用いている。よって、これはハイドンの形式を、発展継承したと捉えればいい。
しかし、ベートーヴェンが、モーツァルトハイドンから継承していないことが一つだけある。
ロココ様式が持つ美意識、典雅で優美なあの調べを、徹底的に排しているのだ。晩年のベートーヴェンの美しいハーモニーは、非常にロマンティックだ。ロマン派そのものだ。モーツァルトハイドン晩年の力強さは、幾分継承しながらも。モーツァルトが、そうした力強さを秘めた作品を手掛けるのは、ヴィーン移住後。この頃になると、ドン・ジョバンニの序曲冒頭や、ピアノ協奏曲第24番 ハ短調のような後のベートーヴェンに繋がる楽想もあるけれど、軽く清澄感に満ち溢れたものがほとんどである。ハイドンは、モーツァルトがヴィーン移住後に同じように力強さを増していく。かつて前古典派とよばれていたものは、音楽におけるロココ様式そのもので、ベートーヴェンは、その音楽における自己主張からも、ロマン派の始祖と言っていい。ベートーヴェンは、当時のロマン派を嫌っていたことで有名であるが、それは感情表現に流されていることを嫌っているだけで、それ以外は、純然たるロマン派である。晩年の作品が古典派とロマン派の超克と言われるのは、幻想的衒学的雰囲気の中、中期の形式を自由自在に変形させながら、ベートーヴェン流にメロディーを歌いきったところにあると思う。また、不思議なことに、官能的耽美を極めたヴィーン世紀末の時代にシェーンベルクが、ベートーヴェン 単一楽章7部構成の弦楽四重奏曲第14番に影響されたかのように、単一楽章、の弦楽四重奏曲第1番、室内交響曲第1番を作曲している。この時代の作曲家は、ベートーヴェンJ.S.バッハの形式の融合をおこなった技術抜群にして、自由自在な和音を扱い、豊潤な色彩を紡ぐ作曲家が、極めて古風な者から過激な者までいて、興味深い。

ゆえに、音楽のユーゲント・シュティール様式を築き上げた作曲家を聴いていた。この流れに、コルンゴルトがいるから、そのDNAを受け継いだハリウッド映画音楽も聴いている。

そして、ベートーヴェンを、徹頭徹尾踏襲し、J.S.バッハの対位法と、ブルックナーと言った響き、ショスタコーヴィチのメロディアスな無調やクラスターを血肉にしたのが、佐村河内守だ。

私は、モーツァルトナチュラルかつシンプルさが生む美、導音的なテンションを限りなくゼロに近づけることで生まれる、「長調」で明るい世界なのに、不思議なほど透明な無常観溢れる美。

音楽のユーゲントシュティール様式の官能的耽美とその色彩感。

佐村河内守の完璧な構成、効果的な前衛手法の引用。

そして、今挙げた作曲家たちの劇性。メロディ。各々のやり方での形式と内容の一致への挑戦。
すべてが、クラシック音楽における最高の孤高というにふさわしい。
ポップス、民族音楽まで取り上げれば、他にもいくつかあるのであるが、今私が、クラシック音楽で最もリスペクトするのは、彼らである。

違う話をすると、ハイドンの初期、エステルハージ宮殿につかえていた頃、当時の流行から隔離される変わりに、狭い身内の受けだけを考えればよく、実験的な作品を手掛けた。交響曲第「告別」といった短調の作品も、バロック時代と、晩年のモーツァルトやロマン派以降とは、違い、そこまで良い意味で劇的ではなくカラッとしていて底なしに暗くないので、非常に個性的。しかしそれ以上に個性的なのは、オーボエの代わりにコーラングレを用いた交響曲「哲学者」だと思う。ハイドンの個性を知りたい場合、「哲学者」と「告別」あたりの短調交響曲を選べばいいように思えてくるこの頃だ。その後普遍化して一般受けする試みをした結果晩年になるとヴィーン移住後のモーツァルトの影響が非常に強い。と、考えたりもする。弦楽四重奏曲は、周りの作曲家の形式を踏襲しても、実力はぴか一であったし、独自に打ち建てた形式は、晩年まで続くので、選ぶなら「皇帝」「5度」「日の出」といった作品から選べばよいだろう。
バロック音楽は、オペラから始まること、器楽の地位はまだまだ低いため、J.S.バッハは、音楽の父とは考えていない。ただ、バロック音楽の技術的集大成であることは間違いない。
音楽史を眺めていると、そんなことを考えるこの頃だ。