Mozart K.452,K299etc...

この曲は、過去に取り上げたことがある。MOZART Quintet in Es-dur, K.452 for piano, oboe, clarinet, horn, and bassoon.ニートが確定したころのこと。不思議だ。4年ぶりにグールドが、言いがかりのような、皮肉とも嫉妬とも取れるモーツァルト初期-中期作品の賞賛から入り*1、聴いていて心地いいのだけど、本質をまだ理解できなかったために、再び聴いている。
各パートが、トゥッティでユニゾンを奏でる時は、驚くくらいシンフォニック。けれどもあくまでも室内楽。基本的には、ピアノと各管楽器が合い競って演奏され、協奏曲風。しかし、編成通りあくまでも室内楽。結果として各パートは、他の楽器とユニゾンになるとき以外、基本的にソロのように動く。それもしっかりと各々のメロディを奏でて、その関係でポリフォニックにも聴こえる。ピアノ対管楽器で見れば、ピアノ=独奏、各管楽器=オーケストラを室内管楽アンサンブルに置き換えたものとも捉えられるし、ピアノをオーケストラのミニチュアと捉えれば、ピアノ=オーケストラをピアノに置き換えたもの、各管弦楽=独奏と言う、合奏協奏曲もしくは協奏交響曲をこのピアノとオーボエクラリネット、ホルン、バスーンに置き換えたものとも捉えれる。またピアノは、減衰楽器であり、打鍵後時間と共に音量が下がる特性と、この頃のピアノ・フォルテでは、ダンパー・ペダルはなく、膝でダンパーにあたる物を膝であてるものであり、今よりも音は伸ばせないかつ、現在よりも音の減衰時間も早かった。また、管楽器は、循環呼吸ができないと永続的に音を出せない、つまり音を出せる時間は、ブレスを吐く時間に左右される。よって、弦楽器よりも息の長いメロディを歌にくい。また、速弾きに不向きという、メロディを歌わせるには、極めて不向きな編成である。実際に、モーツァルトでさえも、7ページに及ぶスケッチがあり、全力で書き上げたエピソードが残る。そして、1784年4月10日の父親宛の手紙のなかで「僕は大きな2曲の協奏曲と五重奏曲を書きました。僕はこの曲を、生涯のこれまでの最高作品だと思っています……」と、この先にも後にもない最高傑作と述べた唯一無二の作品である。大科学者の甥であった音楽学アインシュタインもその絶妙なバランスを絶賛した。9回全体を聴き込んでみた。しかし、何度聴いても、あと一歩のところで、手をすり抜けていく感覚を覚えた。それが、3日前のこと。すでに1日近く起きていて、意識が薄らいでいく。そのため、手がかりになりそうな作品を聴いた。例えば、モーツァルトが最後にパリ滞在した時に作曲したフルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K299(297c)や、偽作とされている、ソロのメロディがモーツァルトらしい、オーボエクラリネットファゴット、ホルンのための協奏交響曲 変ホ長調 K297b(KAnh9)。このK297bは、学者がコンピュータに解析して改訂したレヴィン版だと、オーボエ・ソロがフルート・ソロのメロディに、クラリネット・ソロがオーボエ・ソロのメロディになり、オーケストラは相当違っているようだ。また、この改訂版では、クラリネットは、一切使われていない。オーケストラは、そちらの方が近いらしいのであるが、私は、K.452に近い編成で聴きたいので、オーボエクラリネットファゴット、ホルンが独奏する版で聴いた。モーツァルトの中でも最もギャラント・ロココしているK299もさることながら、K297bも優雅になりすぎなのでK.452との違和感が起こったりするのであるが、あまりにも見事なソロの扱い方に圧倒される。以下、モーツァルトらしく、オフに、イージー・リスニングに。


Mozart - Sinfonia Concertante for Four Winds in E flat, K. 297b / K. Anh. C 14.01


.Mozart: Concerto for flute and harp, K.299 - Coles, Yoshino, Menuhin
天上の音楽を感じないだろうか。この曲は、当時のアマチュアプレイヤーが演奏することを想定して書かれたため、あまり転調はしない。しかし、なんと豊かな楽想だろうか。おそらく晩年の作品よりも、メロディの息が長いと思う。特に映画「アマデウス」でも使われた第2楽章は。この映像の10分56秒から20分00秒頃まで。第2-3楽章は、今でもフランスのサロン音楽の権化のような曲でもある。交響曲第31番パリの第2楽章の息の長いメロディもいいけれど、この曲には負けてしまう。音楽のロココ・ギャラントスタイルを知るにも、フルートとハープのための協奏曲の方が良い気がしてくる。フルートとハープのための協奏曲は、この頃のパリのトレンドのスタイルでもあるのだから。交響曲第31番パリのフィナーレのメロディの畳掛けは良いのだけれど、ジュピターフィナーレや、ハフナー冒頭、プラハフィナーレに劣る。

アインシュタインが、モーツァルト器楽の最高峰と述べたピアノ協奏曲からは、クラリネットがあり、同じ調性である変ホ長調の作品でもある第22番と、一応の終焉を見る25番 K.503 ハ長調 別名「ジュピター協奏曲」を今朝取り込んで聴いていた。

こうして、遡ること中期の作品から晩年の作品を聴いてみると、ヴィーン移住以降急速に劇的になっていく。そのピークは諧謔劇「ドン・ジョバンニ」、交響曲第41番 ハ長調「ジュピター」が生まれた1787-1788年。そして最後は、清澄になっていくのである。

そして不思議なことに、ヴィーン移住以降の方がとめどない転調は多い。それが、より天真爛漫な印象を与えるのだから、なお不思議である。ハイドンは、大人の音楽と言うのに、納得する人が多いと思う。しかし、その何倍もモーツァルトは、ある意味大人の音楽だと思う。モーツァルト療法抜きに、子どもにもいいけれど。ある意味大人の音楽と書いたのは、ありとあらゆる音楽を聴けば聴くほど、誰よりも・・・風なのに、今でもとりわけ晩年のモーツァルトでしか聴いたことがないようにおもえるような転調があるのだ。このコード・チェンジが、モーツァルトが最もモーツァルトらしいところに思えてくる。

佐村河内守ファンでもある作曲家吉松隆氏の月刊クラシック音楽探偵事務所に印象的な言葉が書かれていた。この作曲家は、私は見ていないが、NHK大河ドラマ平清盛」のBGMを手掛けた方である。

ただ長調の音階の音を絶妙に組み立てるだけの「軽さの美学」(決して皮肉ではなく!)では、いまだにモーツァルトを凌駕する「天使(かつ阿呆)」の境地に達した作曲家はいない(決して皮肉ではなく!)。
そこには、「長調」で明るい世界なのに、不思議なほど透明な無常観が漂っている。(それは、作曲法的に言うと、ドミナント的あるいは導音的なテンションを限りなくゼロに近づける高等技法とでも言えるだろうか)

 言うなれば「敢えて表現しないことによる表現」。

 これこそ、その後のロマン派の時代にも達成し得なかった、そしてモーツァルトだけが手に入れた(しかし、手に入れたと同時に当人が死んでしまい封印されてしまった)孤高の音楽語法なのかも知れない。

 なぜなら…
 人は、本当に悲しいとき、涙を流して泣いたりしない。
 ふと、力なく微笑むのだ。

ここには、最晩年の長調の清澄な調べの中にある、陰影をどう和音で表現したのか、チラっと書かれているのだけど、K.452のラルゲット
にも、見いだせるかもしれない。楽譜が読めるようになれば、クラリネット協奏曲のアダージョと比較で理解できると思う。


Mozart: Quintet for Piano & Winds in E-flat major, K. 452 - 1. Largo - Allegro moderato

Mozart: Quintet for Piano & Winds in E-flat major, K. 452 - 2. Larghetto

Mozart: Quintet for Piano & Winds in E-flat major, K. 452 - 3. Allegretto

*1:グールドは、大のモーツァルト嫌いを自他ともに公認していた。とりわけ、後期バロック時代のリズム運びの名残が見られる作品と、J.S.バッハの編曲をしていた頃の作品を賞賛している。