26日金スマ佐村河内守特集、翌27日NHK Eテレ15時より佐村河内守交響曲第1番"HiROSHiMA"東京全曲初演 ON AiR

知らない方は改めて見てほしい。今回野本氏のVTR出演以外あまり興味はないのだけれど、出勤前に金スマは見る予定だ。
Eテレで放送される東京全曲初演は、郷里の両親が、好き嫌いは別として感想を個人的に楽しみであったりする。果たして後期ロマン派音楽が苦手な両親にはどう聴こえるだろうか。今日は今日で、職場のメンバーに、鬼武者のサントラを貸す予定でいる。Eテレに関しては、身内がすべてをまだ聞いていないに等しいので、一緒に観れたら見て、感想を聴こうと思っている。なお3.31のNHKスペシャルで流れている場所を聴いたときの感想は、交響曲からは、あまりにも暗い。この世の汚れ、闇、苦しみを知らなければ理解できないのでは、であった。どう変容するか楽しみでもある。

ファン、アンチ、どんなリアクションをするか改めて楽しみだ。
さて、私自身は、iQ180と湛えるに相応しい、普通であれば、束ねることに失敗する物を束ねてしまう力量が佐村河内守氏の真骨頂のように思う。ショスタコーヴィチとは異なる引用の仕方。菅野よう子さんとある意味似ているように思えるところは、メロディや和音の引用があっても、今までありそうでなかった形にアレンジしまとめあげるところだと思う。J.S.バッハモーツァルトだってそういったところは似ている。彼らは結果的に音楽の革命児と言える存在だったと思う。しかし、それは、その音楽の革新性と言うよりも、その時代の音楽の最高の集大成なのだ。野本氏が賞賛していた、西洋音楽の歴史を知り尽くしていないと書けない作品を書いていること。不思議なことに、それはコルンゴルトやシュレーカーら末期ロマン派の作曲家達に通じるところでもある。私は、そんな氏のファンだ。交響曲第1番"HiROSHiMSA"を評価するに当たり、ブルックナー交響曲第9番、フィナーレの完成度の高さからラトルが指揮したフィナーレ版と比較したし、去年の8月記事にした後、主題労作、発展的変奏に関しては、ベートーヴェン交響曲第5番シェーンベルク室内交響曲第1番、ジャンルは完全なる室内楽であるが、レーガー クラリネット五重奏曲とも聞き比べた。モーツァルト 交響曲第41番『ジュピター』との聴き比べもした。それでも少なくとも勝るとも劣らないと言って良いものを感じてきた。今聴くと、第2楽章「絶望」の終わりの闇への鎮静があるからこそ、最後に希望の光が差し込んでくるように思えてもくる。闇は、暁を求めてである。
鬼武者を聴いて、その多様性をもったメロディ・和音を、緻密な構成で見事に束ねる様に圧倒されもした。
ゆえに、私は、ファンである。

全聾の作曲家として売り出されているのは間違いない。しかし、氏自身が、最後の最後まで拒んだこと、そうして売り出されることを避け抜いたことをみんな忘れてはいけないと思う。同じく耳が聴こえなくなったベートーヴェンフォーレがそうであったように。
隠遁していたのは、病状の過酷さもあるが、そういったことが背景にあることは自伝を読めば間違いないと思う。
知ってもらうために、そうした不服なプロモーションを受け入れているように思えてならない。その精神は、同じく悩めるものに届けだと思う。