NEVER経由で発掘

Mamoru Samuragochi: Sym#1 Hiroshima@N.Otomo / Tokyo SO. - MusicArena

佐村河内およびこの作品を一言でいうと、現代のベートーヴェンではなく、日本版マーラーだ。後天性の聾であるという共通点、また真摯で求道的でありながらちょっと粗野な展開を見せるという共通点からキャッチコピーをつければベートーヴェンとなるのかもしれない。

(中略)

現代音楽の世界でないオーソドックスなロマン派交響曲が現代のこの日本で書かれたという事実自体が驚愕であり、また出来栄えの点からいっても称賛に値する作品だ。

(中略)

ある意味では没個性ともいえる旋律・和声ではあるけれども、特筆すべきはこれらに対するオーケストレーションの多彩さ、巧みさだ。この重層感のある、そして隙がなくて美しい組み立て方法はラヴェルバルトーク管弦楽曲に通じるものがある。金管隊の時間差攻撃的なフィーチャーや打楽器隊の効果的な起用といった、技法的に似ている過去の作品に例えるとするならばペトルーシュカ、オケ編曲版の展覧会の絵、あるいはオケコン、ミラクル・マンダリン辺りが挙げられようか。夥しい音の数とそのコントロール、多元性に富んだ鮮やかかつ艶やかな塗り重ね方が傑出しており、こう言った優れたオーケストラ作品が純国産として聴ける日が来ようとは想像だにしていなかった。

(中略)

この作品の音楽的評価はここ数年である方向に定まるとは思われない。寧ろ、我々がいなくなった時代のなかで後世の人々がこの作品を聴いているのか、あるいは聴いていないのか、また聴いているとすればどういった心持、どういった価値観で聴いているのか、ということが真の評価だと思うのだ。

反駁も入れながら書こうと思う。現代のベートーヴェン、直訳すればデジタル世代のベートーヴェンとなるが響き、重さ、マーラーが持っているカオスティックな多様性は、日本版マーラーと言うに妥当と言わしめるものがある。氏も、自伝で常々マーラーのような交響曲を書きたいと述べたこともある。
氏の言葉からみるに、主題労作の緻密さは、むしろベートーヴェンに近い。後天性の聾といった共通項もある。音響のカオスを指してちょっと粗野な展開と書かれているように思うのであるが、そうした場面をもルトスワフスキの如く、予定調和の範疇でコントロールしきるところが、むしろベートーヴェン的。

今、この時代の日本で書かれたことが驚愕には、異論をはさむ余地はない。

この記事を引こうと思ったキッカケは、オーケストレーションにとりわけ言及しているから。あれだけの大編成を鬼武者 交響組曲「ライジング・サン」でコントロールしきった事が契機で、IQ180の天才と称されたが、交響曲第1番"HiROSHiMA"では、ヴァーグナー・チューバなしで、同様の効果を、ホルン、トロンボーン、チューバで挙げているところは、特筆するに値する。
バルトーク中国の不思議な役人とオーケストラのための協奏曲は、未聴である。編成を見るに、中国の不思議な役人と舞踏組曲は、必ず聞かなければならないと思っている。その辺りを知ることで、氏のオーケストレーションを知る手掛かりになりそうだ。

最後の引用からになるが、実は、私が本当に気になることの一つである。コルンゴルト、シュレーカーらのように不当な弾圧で消えてしまう例も多いが、それでも真に知的で、アクのある作曲家であれば、間違いなく歴史に残るはずだ。だから、現在最長老の指揮者でもあるスクロヴァチェフスキ氏が、現代の作曲家による音楽が残るかは、死後の時代が決めることという主旨を述べているが、私も同じ意見である。私は、その知性ゆえに後世に残ると信じてやまないからと考えたから今、一人のファンである。